自然権(しぜんけん、羅: ius naturale/jus naturale、英: Natural rights)とは、人間が、自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階より、保持している生命・自由・財産・健康に関する不可譲の権利。人権は、自然権の代表的なものとされている。今日の通説では、人類の普遍的価値である「人間の自由」と「平等」を中心とする基本的人権、並びに、基本的人権を基調とした現代政治理論において、最も基本的な概念・原理であるとされている。ただし、その由来については神が個々の人間に付与したとする考えと人間の本性に由来する考えが存在する。 古代ギリシアにおいて、自然権は自然的正義に基づいて人間本性が持つ権利であると考えられてきた。「付与の平等性」が強調される近代の自然権論(人権論)と異なり、むしろ逆に平等性・公平性が強調されるノモス(社会・法律)の論理に対抗して、強者・優秀者が多くを得る・受け持つことがピュシス(自然)の正義・権利であるとして、不平等性を正当化する論理に専ら用いられた。(こうした発想は、近代においてはニーチェ等によって賞揚されることになる。)プラトンは『ゴルギアス』のカリクレスや、『国家』第1巻のトラシュマコス、『法律』第1巻 第3章のクレイニアスなどに、そうした素朴な弱肉強食的な強者の論理、優秀者支配論を語らせ、それを反駁・修正する形で、善(善のイデア)やそれと関連した正義・勇気・節制・美・敬神などを踏まえた、国民を善導していける「真の優秀者」による国家支配を主張している。 これに対してキリスト教のスコラ哲学においては、自然権は神から人間本性に平等に与えられたものと解されてきた。(プラトンにおいても、『ティマイオス』等において、人間は創造主デミウルゴスや、彼が作った神々に由来するものを、等しく分け与えられていることが説明されるが、それは人間の存在・権利の総体というよりは、専ら魂(プシュケー)(の三部分) の中の「理性・知性」的な部分が、神に由来するという切り口で説明される。こうした理性重視の思想は、ストア派にも受け継がれ、近代においては大陸合理論(理性主義)のスピノザ、あるいはルソーやカント等によって賞揚された。) ただし、このような近世よりも前の時代においては、自然法に関する議論に重きが置かれ、自然権自体に対する関心は決して高くはなかった。 しかも、古代・中世(ソクラテス・プラトン?キリスト教)を通じて、自然権は、客観的に正しい秩序に服すべき人間が持っている自然的義務に、セットになって対応する権利と考えられていた。その場合、人間への自然権付与の前提としての、その自然的義務を課す存在(正義もしくは神)が、自然権に常に伴って想定されていた。それで、人間に、義務を履行しているか否かに無関係に、直接的に無条件に付与するような自然権というものの存在は、考えられていなかった(ただし、12世紀の教会法学や14世紀のノミナリズムに近代的な自然権観念に近い考えが存在していたとする説もある[1])。
近代以前