自然主義文学
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自然主義(しぜんしゅぎ、: naturalisme、: Naturalism)または自然派(しぜんは)は、19世紀後半にフランスを中心に始まった文学運動である。エミール・ゾラが名付け、理論を体系的に展開した。自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する。ダーウィン進化論ベルナールの『実験医学序説』、コント実証主義テーヌ決定論、ダーウィンに影響を与えたリュカ遺伝学などの影響を受け、理論的根拠とした[1]。実験的展開を持つ小説のなかに、自然とその法則の作用、遺伝と社会環境の因果律の影響下にある人間を、赤裸々に描き見出そうとした。貧しい人々がうごめく姿が描かれることが多かった[2]

写実主義文学(リアリズム文学)が発展して生まれたもので、唯物論的世界観・自然主義的決定論とペシミズム、現実性を重視し架空性を排除した精密な客観描写、人生の暗黒面の描写を避けないこと、作品における社会関係の存在、といった特徴があるが、後ろ二つの特徴は批判的リアリズムと共通している[3]。自然主義文学の定義はかなり多様であり、代表と見られる作家も、ゾラ、ゾラを師と仰いだモーパッサンらメダン・グループ、ゴンクール兄弟を中心に、その外側にフロベールドイツ自然派、次にバルザックイプセン、その外側にトルストイドストエフスキーまで同心円状に分布され、批評家が己の解釈に従って半径を定め、切り取って提示している[3]。自然主義文学をリアリズム文学と同義語的に用いる傾向も一般的に見られる[3]
フランス

19世紀後半のフランスで、エミール・ゾラを中心に起こり、ヨーロッパ各国に広がった。当時すでに時代遅れになっていたロマン主義への反動として起こった[1]。19世紀には、18世紀の観念的な小説に代わり、バルザックに始まる描写、主に環境の描写を取り入れた小説が最も発達し、実証主義的風潮のなか、その傾向は自然主義小説において特に強まった[4]。1850年代に始まったフランスの写実主義文学(リアリズム文学)は、次第に発達し、1870年代には自然主義文学と呼ばれ、以後20年ほど盛り上がりを見せた[5]。フランスの文芸における自然主義の特徴は、1850年代に始まるフランス写実主義文学の極端な誇張に加えて、実証主義精神に一層自覚的であったことである[5]

アメリカ文学者の渡辺利雄は、リアリズムの一面を徹底させたヨーロッパの自然主義の特徴を「現実の醜い一面をあくまでも暴き出すが、自然主義はさらにそれが人間の内面の遺伝的な要素と外面的な環境によって生じた、人間にはどうしようもない結果であると決定論的に断定する。そして、それを試験管の中の化学反応を必然の結果として冷静かつ客観的に観察する科学者のように感情や、価値判断を加えずに描き出す。」と説明している[6]
背景

実証主義は、18世紀のディドロに代表される百科全書派あたりに源を発するもので、文芸の分野では、スタンダールバルザックからフローベールを経て、ゾラへとつながっている[5]

哲学者のテーヌ、医師のベルナールのふたりが、ゾラに実証主義精神を最も強く鼓吹した人物で、この両者の実証主義の核にあたるのは、「宇宙のあらゆる現象が先行諸原因によって厳密に決定されている」と考える決定論(デテルミニスム)的思考である[5]。これは、一切を「因果の必然」によって説明しようとする近代科学の世界観に基いている[5]。精神科医のベネディクト・モレルが説いた、より低次で非文明的な状態に退化していく傾向を持つ悪性の遺伝的特質を持つ人間がおり、生育環境や自然環境の影響で遺伝が発現して「変質者(デジェネレ)」となり、この正常な人間からの逸脱である「変質(デジェネレッサンス)」は遺伝によって受け継がれ、代を重ねることで累積し、徐々に悪化してその血筋が絶滅に至るという変質論の影響を受けている[7]
概要

自然主義文学は、1865年前後のゾラや、エドモンジュールのゴンクール兄弟の小説にその最初の表現がみられる[1]。ゾラは1868年に『テレーズ・ラカン(フランス語版)』二版の序文で自然主義宣言を行い、以来ゾラを中心とするグループができ、一つの潮流になっていった[1]。ゾラは人間の行動を、遺伝、環境から科学的、客観的に把握しようとし、バルザックの「人間喜劇」に着想を得て「ルーゴン=マッカール叢書」と呼ばれる作品群を企画し、貧しい夫婦の転落を描いた『居酒屋』(1877年)、美しい女優(『居酒屋』の主人公夫婦の娘)が男たちを次々破滅に追い込み、自らも悲惨な最期を遂げる『ナナ』(1880年)等の中で、自らの論を実践した[8]。『居酒屋』が出版されると、この文芸運動は時代を席巻し、アレクシス(フランス語版)、セアール(フランス語版)、エニック(フランス語版)、ユイスマンスモーパッサンドーデといった作家たちが生まれた[1]。ゾラは1880年に『実験小説論』で、人生は実験であり、作家はいわば、実験室の中の科学者として、作品の中の人物たちを客観的に観察するのだという考え方を打ち出し、人間は置かれた環境だけでなく、知・情の発達成長が遺伝に大きく左右されると主張し、自然主義理論を体系的に展開した[8][6]。同年ゾラは、メダン(英語版)にあるゾラの別荘に集まっていたモーパッサン、ユイスマンといった若い小説家たちと共に、普仏戦争をテーマに、徹底した反戦思想を貫く小説を持ち寄り、中編小説集『メダンの夕べ(フランス語版)』を出版した[9]。本書は、牧歌的な村が突如戦場となり、恋人たちが犠牲になる姿を描いたゾラの完成度の高い小品「水車小屋の攻撃(フランス語版)」や、普仏戦争の中、娼婦が避難の際にたまたま同道したブルジョアや貴族、成金、宗教者達に利用され、敵国将校との性交を強いられ、尊厳を踏みにじられる哀れな姿を描いた、モーパッサンの「脂肪の塊」を収録しており、自然主義文学を強く印象付けた[1][9]

フランスの自然主義文学は、ゾラらの作品により注目を集め、海外にも影響を与えるようになった[6]。「因果律」を最重要視する因果決定論、いわば科学的決定論は、ゾラだけでなく、19世紀後半の写実主義作家や自然主義作家達の常識となり、以降の小説作法の強烈な縛りとなっていった[5]

自然主義文学は、社会の病悪を主なテーマに、社会、特に貧しい下層の環境を舞台に、そこに生きる人々を登場人物に、人間の醜さ、異常な面を強調し、克明に、酷薄に描いたが、露悪的で厭世的な傾向を強め、人々の反感を買った[1]。ゾラの作品は、猥雑、露骨だと批判を受け、彼が1887年に、貧しく陰鬱な農村を舞台に、零細な土地に異常なまでに執着し奪い合う貧農たちの、素朴で貪欲、悲惨な動物的生き様、醜い人間の獣性を描いた『大地(フランス語版)』を出版すると、彼の弟子たちも反旗を翻し、自然主義を離れた[1][10]


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