自殺攻撃
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この項目では、世界史現代社会における自殺的な攻撃について説明しています。

自爆によるテロリズムについては「自爆テロ」をご覧ください。

自殺的・自爆的な軍事部隊については「特別攻撃隊」をご覧ください。

ディストピア小説『1984年』に登場するイデオロギー「死の崇拝」については「イングソック#オセアニア以外の大国のイデオロギー」をご覧ください。

自殺攻撃(: suicide attack, kamikaze attack)とは、特攻自爆テロのような攻撃[1]自殺的攻撃[2]自己犠牲攻撃ともいう[3]
概要

各種の研究論文においては「特攻隊や自爆テロなど」[2]や「玉砕、特攻」といった例が自殺攻撃とされている[4]。「自殺戦略」(suicide mission)という語句もあり[5]辞典では「あなた自身を滅ぼしている間、他の人を死傷させること」とされている[6]。自殺攻撃の思想は、「死の崇拝」(death cult)[7]や「死万歳」と呼ばれる[8][注釈 1]

行政学者村上弘によると、自殺攻撃の発生した背景に伝統的・集団主義的・権威主義的・感性的な文化があることが、複数の先行研究で指摘されている[4]。こうした文化は、「「市民」の理念を構成する自律性、合理性とは逆の特性」であり、過度な忠誠や「過労死」にも関連していると考えられている[4]

社会学者加藤秀一は、「自殺攻撃」を「究極のテロリズム」としている[10]。また、哲学者・神学者久保文彦は、「自然界の一員」である人間が地球を汚染すること(水俣病のような公害事件等)を、「自殺的攻撃」と形容している[11]

英文学者川島伸博によれば、命を捨てて敵を倒したサムソンの逸話が旧約聖書にあるが、9.11以降、サムソンの行為は「自爆テロを肯定するもの」として批判されてきた[12]。サムソンの結末を「勝利の死」として称賛する解釈は、戦争プロパガンダと化して「若者を自殺的戦場へと駆り立てた」という[13]

バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートの研究書『反西洋思想』によれば、「ドイツナショナリズム」のような反動主義的ヨーロッパ思想と、新たに解釈された土着の伝統との組み合わせは、時に致命的で、様々な「死の崇拝」を生み出した[14]
死の崇拝「死の崇拝」および「イングソック#オセアニア以外の大国のイデオロギー」も参照

哲学者・記号学者・オックスフォード大学名誉研究員ウンベルト・エーコによると、結束主義(ファシズム)は様々な矛盾や形態を持っているが、その中でも典型的特徴を備えたものは「原ファシズム(Ur-Fascism, Ur-Fascismo)」または「永遠のファシズム(Eternal Fascism, fascismo eterno)」という[9][15]。原ファシズムにおける、英雄主義と「死の崇拝」(死万歳)との関連について、エーコは次の通り論じている[8]

こうした見通しに立って、<一人ひとりが英雄になるべく教育される>ことになります。神話学において、「英雄」はつねに例外的存在ですが、原ファシズムのイデオロギーでは、英雄主義とは規律なのです。その英雄崇拝は「死の崇拝」と緊密にむすびついています。ファランヘ党の合言葉が「死万歳!」であったことは偶然ではありません。ふつうの人びとになら、死ぬのはいやだろうけれど尊厳をもって立ち向かいなさい、と言うものですし、信仰者に対しては、死は神の意志による幸福に到達するための悲痛な方法なのです、と言うものです。ところが原ファシズムの英雄は、死こそ英雄的人生に対する最高の恩賞であると告げられ、死にあこがれるのです。原ファシズムの英雄は死に急ぐものです。そのはやる気持ちが、実に頻繁に他人を死に追いやる結果になるのだということは、はっきり言っておくべきです。[16]

原ファシズムには「伝統崇拝」(cult of tradition)という特徴もあり、これはフランス革命後の反革命思想に典型的だとされる[9][17]
自殺攻撃の例
枢軸国関連

ドイツと日本は第二次世界大戦で同盟を結び、共に敗戦国となったこともあり、比較されてきた[18]。両国とも、特攻隊が存在していた[19]
ドイツにおける自殺攻撃「第三帝国」、「ドイツロマン主義」、「ナチズム」、「エルベ特攻隊」、「自己犠牲 (ドイツ空軍)」、および「血と土」も参照
ロマン主義・愛国主義

西洋との戦いや「死の崇拝」は、ヨーロッパ史の一部でもあった[20]。例えば、ヨーロッパ諸国が植民地を巡って戦った七年戦争(1756年?1763年)によりドイツの大部分が荒地になった後、『祖国のために死ぬこと』という有名なエッセイが記された[21]。エッセイの作者は数学者・啓蒙主義者・自由(リベラル)思想家であるトーマス・アプトであり、モーゼス・メンデルスゾーンのようなユダヤ人作家とも親しい人物だった[22]。アプトはエッセイで、「同志」へ次のように語る[22]。死の喜び、それは私たちの魂に、幽閉された女王の叫びのように呼びかけるもの。死の喜び、それは最後に私たちの血管から、苦しむ父なる祖国へ血液を注ぐこと。祖国の大地がそれを吸い取り、再び生きていけるように。[22]

しかしアプトは謹厳な軍人からは程遠く、「自己犠牲」と「美しい死」への呼びかけは、あくまでロマン主義的な詩的表現だった[22]

第一次世界大戦では、1914年11月の「ランゲマルクの戦い」で、ドイツ軍フランドル地方イギリス軍に対し不毛な連続攻撃を試み、14万5千人以上の兵士が死亡した[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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