自救行為
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この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。Wikipedia:法律に関する免責事項もお読みください。

民事法の概念での自力救済(じりききゅうさい、じりょく - 、: self-help、: Selbsthilfe)とは、何らかの権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすことをいう。刑事法自救行為(じきゅうこうい)、国際法の自助・復仇がこれに該当する。これを規定した条文はないが、現代の民事法では例外を除き禁止されている。目次

1 概説

2 規定・学説・判例

2.1 おもな判例

2.2 国税滞納処分


3 脚注

4 参考文献

5 フィクション

6 関連項目

7 リンク

概説

自力救済の典型例として、自身の駐車スペースに無断駐車された際、タイヤをロックして金銭などを受け取るまで足止めする行為がある[1]

こうした行為を容認すると、実力行使できる方が有利(力が正義)ということになる。こうなると、腕力・武力・地位などで権利回復の度合いに差異が発生する。また私刑を行う用心棒自警団など実力行使を請け負う私的機関(私兵)がはびこって社会秩序の維持が難しくなる。マフィア暴力団などが市民を警護する対価として金銭(みかじめ料)を徴収するなど、非合法組織の資金源ともなってしまう。

司法制度や警察組織が整備される近代以前には、警備員を自力で雇用できる貴族や裕福な者は領民や地元住民を保護することで権力を得ていた。このほかにも地域や職能団体で金銭を集め傭兵などの組織に対価を払うことで自己防衛を図っていたが、侵害された権利を回復するためには実力に訴えざるをえなかった。例として古ゲルマン法フェーデや中世日本の私軍などがある。宗教団体も信徒や巡礼者を保護するために僧兵のようなウォリアーモンクを動員し自力救済を行っていた。

近代以降は各国で法整備が進み、権利の有無の判断や執行は司法によってなされるべきとされ、私人の介入を排することで万民に平等な権利が保障されるようになった。しかし自力救済は裁判所による煩雑な手続きよりも迅速に問題を解決させることができる側面も有している。そこで現代の法にあっては、例外規定を設けつつ自力救済を禁止する傾向が一般的である。その例外の広さはまちまちで、コモン・ロー(英米法)系[2]の民事法では自力救済の制限は緩やかで、国際法上は厳しく運用される。現代においても失敗国家無政府状態では、政府を頼れない民衆が自警団を結成したり地元の有力者が私兵組織を勝手に作る例がある。

日本法の歴史では、古代から自力救済が行われていたと考えられ、律令制において裁判制度が整備された後も一定の範疇で自力救済が行われていた(養老律令『雑令』では少額の債権に関する自力救済を認める規定もある)。更に律令法には判決に関する強制執行の規定がなく、国家権力による救済は十分でなかった[3]と考えられている。度々発生した私軍に関しては朝廷や幕府は禁じていたものの、実際は黙認状態出会った。

中世に入ると、国家が社会の全ての集団や構成員を掌握している訳ではなく、その法を強制するだけの権力も無かった。そのため、紛争解決のために当事者に関わる血縁的・地縁的・職能的集団などの社会集団が強制力を伴う実力行使によって権利の保全、集団秩序の維持が行われる自治的な自力救済が社会的にも正当な行為とされた。村社会などに代表される集団自治的な自力救済制度は、近代的法体系が導入される明治時代以前まで続いた[4]

武家法公家法による裁判による解決方法もあったが、判決を執行させるのは最終的には判決と言う法的裏付けによって保証された実力行使であった。近世社会の成立以前において、自力救済は武士以外の階級にも広範に認められていたと考えられている[5]が、戦国大名の分国法塵芥集など)に多く見出される喧嘩両成敗法や裁判中の中間狼藉の禁止、故戦防戦法の導入、差押えに対する領主の許可制などはこのような私的刑罰権を制限していったと考えられている。もっとも、民間の自力救済には慣習法的な制約があり、在地裁判や中人(近隣からの仲裁)による話し合いによる解決策によって実力行使の回避が図られ、殺人犯などの引き渡しの作法や、自力救済を巡る合戦の際には一定のルールが定められるなど、実力行使による自力救済が限りない暴力と報復の連鎖を生みださない知恵も図られていた。

豊臣政権及び続く江戸幕府は自力救済を抑制して公儀による裁判で解決させる方針を原則とした。武家法における仇討ちは自身の尊属および主人の敵を討つ場合にのみ認められ(公事方御定書により規定される)、仇討ちの際にはしかるべき届け出が必要とされた。また江戸時代の身分制社会では無礼討ち(幕末の生麦事件を参照)が存在し、1742年の公事方御定書においても成文として取り込まれている。これはむしろ近世以後に一般化し、18世紀以降不文律として定着していったようである。明治政府においては1868年の仮刑律では尊属を殺害した者に対する復讐は罰しないこととし、官に届け出さえすれば復讐は可能であった。しかし1873年には太政官布告により復讐は禁止させられ(この年の2月に「仇討禁止令」)、以後私的刑罰権は否定され、公刑主義が貫かれている。
規定・学説・判例

民法のなかで自力救済を規定した条文は存在しない。もっとも、民法233条2項では「隣地の竹木の根が境界線を越えるときは、その根を切り取ることが出来る。」と規定しており、代執行によらない所有権に対する妨害排除を認めている。しかし通説・判例は原則禁止の姿勢をとっている。法律構成としては、占有訴権について定めた民法202条第2項を適用する。どのように入手されたものでも(盗んだものであっても)ひとたび占有された以上占有権が発生し、それを自力で奪い返すと占有権侵害となって不法行為により損害賠償請求権などが相手側に発生する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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