自己否定
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無我」とは異なります。

自己否定(じこひてい)とは、自分自身を否定すること、自己がそれまでの自己であることをやめること[1]。また、自己否定(英:self-denial)とは、人間の欲望や力そのものの否定であり、自己や感情を鍛えコントロールする自制であり、他者や神のための自己犠牲的な行動として表れる[2][3][4]
哲学と自己否定

哲学の弁証法では、内部に矛盾を含んだ自己が、矛盾の展開とともにこれまでの自己の状態をやめなければならなくなることを自己否定と言う[1]。ヘーゲルは「今あるものは常にその自己否定が含まれている」と考え、自己否定とは自己の発展のために通らなければならない段階であり、人間は内在的な矛盾と自己否定を通して、自分自身を止揚し、より豊かで高次の新しい概念、新しい自己へと至り、無限に生成変化すると考え、これを人類の歴史にも当てはめて分析した[1][5]
全共闘世代と自己否定詳細は「自己否定論」を参照

1960年代の全共闘世代のエリート大学生たちは、労働者を抑圧する側に回っていいのか、アメリカのベトナム戦争への日本の協力を許していいのかといった問題に良心の呵責を覚え、政治的な使命を感じたが、労働者でもない学生の自分が「マルクス主義的な言語空間の中で政治へと踏み出すことの欺瞞性」もまた抱えており、倫理的誠実さを求めて、そういった欺瞞を徹底的に、相互に批判する「自己否定」「総括」を実践した[6]。全共闘世代の自己否定には、青年の自分探しであると同時に、学生運動だけでなく、当時の社会運動にも通底する論理であった[7]。また、社会改革のために望ましい自己のあり方、主体性を追求するという意味もある[7]。新左翼の学生たちは、旧来の左派を批判したが、影響もうけており、社会改革・革命の主体性を重視し追及する考え方は、戦後初期に左派の知識人や作家たちが、「日本に民主革命をもたらすことができる望ましい政治的主体とはなにか、そうした能動的な主体性をどう位置づけるか」という主体性論争にまで遡る[7]

全共闘的な反省倫理からは、自己否定そのものを目的化するということが生じた[6]連合赤軍においてグロテスクな形で純粋化し[6]、メンバーに対し過激な総括を要求し、メンバーへの虐待、殺害が行われた。
自殺と自己否定感

自己に対する否定的な感情である自己否定感は、メンタルヘルスの課題であると考えられており、自殺の要因のひとつである[8]。自分の存在を消してしまう自殺という自己破壊行動は、自己の存在を否定する最も極端な方法の一つだと言える[8]。自己否定感を軽減することは、自殺予防にも繋がると考えられる。ソーシャルサポート(精神的健康の維持や向上に役立つ対人関係)、レジリエンス(立ち直ろうとする内的な力)に、自己否定感を軽減する可能性があると考えられている[8]
自己否定(英:self-denial)

自己否定、自己放棄(英:self-denial、denial of self)とは、欲望する自己の放棄、利他的な禁欲である。自己否定の道徳を守ろうとする人は、自分の感情や欲望、衝動を否定、放棄、またはコントロールし(自己の否定、自己の放棄)、神や他者といった自分以外の存在のために自己犠牲的に行動する[2]。たいていは、より大きな善を生み出すことを期待して行われるとされる[2]。自己否定とは、我慢し、自粛し、克己することであり[3]、自分以外の存在のために自分の楽しみや欲望、利益をあきらめる自己犠牲献身であり、自分以外の存在のために試練を受け、辛い目にあったりすることである[9]


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