自動車レース
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フォーミュラ1 インディ500 ル・マン24時間レース

自動車競技(じどうしゃきょうぎ)は、モータースポーツにおいて自動車を用いて行われる競技。ほとんどが競走競技で、それらを「自動車レース」や「カーレース」(: auto racingやcar racingなど)とも呼ぶ。

一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部三輪)の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。

英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。オートバイやそれに準ずる車両の競技については、「オートバイ競技」を参照
概要

「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。

自動車競技の大半は「速さ」を競う競技である[1]。定められたコースを最も短いタイムで走りきった者か、あるいは一定時間(24時間など)の間に最も長距離を走りきった者か、レースによって定義に微妙な差異は存在するものの、本質的には速さを競うという点で同じである。

一方で少数派ではあるものの、自動車レースの中には速さではなく燃費を競うもの(燃費競争)もある。同じ量の燃料でどれだけ遠くまで走れるかを競うルールや、一定距離を走った後で消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者を勝利とするなど、これもまた勝利条件にわずかな差異はあれど、燃費を競うという本質は同じである。

あるいは特殊な例として、車を滑らせる技術の美しさを競う「ドリフト」、自動車のデザインの美しさを競う競技会「コンクール・デレガンス」などがある。後者は現代ではクラシックカーイベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。

1887年フランスパリで約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。1894年には、パリからルーアンまでの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。1900年には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→#歴史

現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。自動車レースは様々な分類が可能であるが、多くは走る道(コース)と競技に参加する車両の2つに大別できる。→#コースによる分類#競技車両による分類

F1インディ500といった世界的に人気の高いレースはテレビで放送されるなど、人々の目に触れることが多く認知度も高い(そして有名な自動車レースのなかでも特に歴史が長く注目する人々の数が多いF1モナコグランプリル・マン24時間レース、インディ500が「世界3大レース」などと言われている。ヨーロッパでは前者2者が人気で、アメリカではインディ500が大人気、と住む大陸で人気が別れている。)が、実際には放送もされない中規模のレースや、さらには少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)までさまざまな規模がある。

レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「ホモロゲーション」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)の承認を得ている。→#レギュレーション(規則)

現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→#レーシングチーム

レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは免許や実績など何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。

国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。ヨーロッパの多くの国やアメリカ合衆国では、自動車自体の歴史が長く、自動車レースの伝統もとても長く、数多くのレースが開催されており、人気が非常に高く、ファン層も厚く、高齢者から小さな子供までが(男性も女性も。祖父・祖母や、孫の小学生や幼稚園児まで、世代を超えて一家で)レースコースの観客席に駆けつけ、家族全員で参加するお祭りのように楽しむ。(なおスイスは例外で、国内でレースを行うことを禁止している)。中南米(特にブラジルアルゼンチン。en:Category:Motorsport in South Americaを参照)やオセアニア地域でもモータースポーツはかなり盛んである。東南アジアでもそこそこ人気はある。日本では昭和時代に自動車産業が盛んになって以降、自動車レースの人気は(欧米ほどではないが)そこそこ高くなり、世界選手権レベルの国際競技で使えるものを含む大小多くのサーキットが建設された(→日本のサーキット一覧)。(ただし日本では、今でも人数的に見るとファンの数(全人口に対する自動車レースファンの数の比の統計)はヨーロッパやアメリカに比べればかなり低く、「限られた人々の関心事」といった位置づけである。日本の自動車レースのファンは男性ばかりで、ほとんどの日本女性は自動車レースには全然興味が無いなど、日本ではいまひとつ広がりが無い。)

日本でのテレビ放送について言えば、ヨーロッパやアメリカの自動車レースは日本でも放送されることも多いが、中南米、東南アジアのレースは日本では放送されることはまずなく、日本人の盲点になってはいる。とはいえ2010年代からはYoutubeのおかげで日本にいながらにして中南米や東南アジアのレースが楽しめるようになってきた(たとえばgoogle翻訳したポルトガル語で「Corrida de carros」(「自動車レース」という意味)などとキーワード入力して動画検索すると、ブラジル国内で有名なレースも見て楽しめるし、さらにはブラジルの小さな草レースまでも楽しむことができる)。
歴史 ド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車に乗るアルベール・ド・ディオン伯爵。
起源

自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社(英語版)の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートン(英語版)であった。彼はアルベール・ド・ディオン(英語版)伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく[2]、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。 正式な優勝者である、ジョルジュ・ルメートルと彼が所有するプジョーType3(写真:上)
パリ - ルーアンレースの様子。何も規制されていない公道の中でレースを行う(写真:下)


記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアル(英語版)である。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル(英語版)」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた[3]。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。

ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした[注 1]。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョーパナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した[4]。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートル[5]と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた[3]。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした[6] パナール・ルヴァッソール Type A。左の人物がエミール・ルヴァッソールであり、ルネ・パナールらと共にこの車を設計した
自動車競技黎明期

1894年のパリ ? ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた[3]。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。

6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし[7]、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない[8]。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。 ロードアイランド州クランストンナラガンセット・トロット競馬場で開催された「馬なし馬車レース (Horseless Carriage Race)」スタート直前の様子
(※:写真は1896年9月26日)

1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州シカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった[9]。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された[9] デュリエ兄弟。向かって左がチャールズ、右がフランク。(※:1908年頃の写真)

自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレースヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。 ゴードン・ベネット・カップに出場するリシャール・ブラシエ(1904年)
国際レースの登場

国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した[10]

ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。詳細は「ナショナルカラー#モータースポーツのナショナルカラー」を参照 1906年に初開催されたフランスグランプリの様子。


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