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やノートページでの議論にご協力ください。自公民路線(じこうみんろせん)とは、いわゆる55年体制において、自由民主党が公明党・民社党(公民)の協力により政権運営を行ったことを指す。とはいえ、公民両党が正式に与党入りしたことはおろか、閣外協力したこともなく、55年体制の下では公民は表向きは最後まで野党だった。55年体制が終わったあとも、公明が正式に自民と連立政権を組むのは、非自民・非共産連立政権、自社さ連立政権を経た後の1999年10月になってからである。この時、民社党は既に存在せず、民主党の一部を構成するようになっていた。
後述するが、2012年における自民・公明・民主の三党合意に見られるように、民社党の議員と支持団体の一部ないし大部分が合流した民主党(その後民進党および希望の党を経て国民民主党)と自民・公明の協調路線をかつての語句をそのまま使って「自公民」と言う例が存在する。当稿のかつての版においても、自民・公明・民社によるものと、自民・公明・民主によるものとが記述上の注釈なしに共に語られていることから、ここで注釈する。 自公民路線は別名「自公民連携」とも言い、「社公民路線」と違って元々衆議院と参議院で与野党伯仲状態が続いた時に、重要案件の法案成立を目指して自民党が公民両党の修正案を呑む形で法案成立させたところに源流がある。もっとも、民社党は結党間もなく、岸信介首相の後任として、自民党のほうから西尾末広首班が持ち上がるほど関係が近かった。西尾が断ったためこの話は流れたが、そうした関係から自民党の翼賛野党、第二自民党と揶揄されたこともあった(逆に西尾は社会党を「第二共産党」であると反論している)。 1971年の沖縄返還協定法案の成立の際に田中角栄幹事長が公明党矢野絢也書記長、民社党池田禎治国会対策委員長らと接触し、修正で成立させた。自民党と民社党が「党と党」の関係なら、自民党と公明党は「党田中派と党」である。 その一方で、公民は野党第一党である日本社会党と連携する社公民路線も模索された。しかし1970年代後半から、地方の首長選挙で自公民の選挙協力が常態化する。1979年の東京都知事選挙では、自公民・新自由クラブ推薦の鈴木俊一が、社共推薦の太田薫らを破って当選した。この年、民社党は中道政党と自民党との連立政権を目指すとはっきり打ち出した。さらに地方選挙では、自公民に社会党も加わったオール与党体制が出来つつあった。大義名分となったのは反共のみであった。当然ながら、社共共闘は破棄されることになる。 1988年、消費税が成立すると、反対しながらも自民党との妥協の姿勢を見せていた公民は強い反発を買い、自公民連携に閉め出される形となった社会党の人気が急上昇した。国民の消費税への反発はこれほど強かったのである。1989年7月の参議院選挙では、社公民が連合主導で「連合の会」候補を推す形で、社公民路線へ一時的に回帰した。しかし結果は、社会党と社会系候補の一人勝ちで、公民との関係は悪化した。同年8月、海部内閣の発足で、小沢一郎幹事長が公明党市川雄一書記長、民社党米沢隆書記長らと関係を構築し、ワン・ワン・ライスと称される。1990年2月の第39回総選挙で自民党が政権を維持し、社公民ではまたしても社会の一人勝ちとなったことで、公民は反発し、ますます自公民路線に傾いた。 1991年東京都知事選挙では、自公民3党で鈴木都知事に対抗馬を擁立するも敗北する。小沢幹事長が辞任し、小渕恵三幹事長の誕生で一時後退する。連合は社会党も加えた与野党相乗り(社公民+自を考えていた)候補を望んでいたが、社会党は「反小沢」を理由に拒否した。にもかかわらず、社会党は鈴木俊一を支援するか独自候補擁立かで意見が割れ、そのため候補擁立が遅れに遅れ、共産単独候補にも及ばぬ惨敗であった。なお、社会党はこの選挙の後、鈴木都政において与党となる。
概説