臨済宗
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出典検索?: "臨済宗" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年9月)
臨済義玄

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国禅宗五家(臨済・?仰曹洞雲門法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。

日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗日本達磨宗黄檗宗普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。
歴史

臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延沼である。

臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。

南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

宋代の大慧宗杲と曹洞宗宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
台湾における臨済宗

佛光山 - 台湾における四大仏教宗派のひとつで、世界に200以上の寺を持つ。開祖の釈星雲は、普陀後寺(法雨寺)において第四十八代の臨済宗継承者とされる[1][2]

法鼓山 - 台湾における四大仏教宗派のひとつ。

中台禅寺 - 台湾における四大仏教宗派のひとつ。虚雲の弟子である石偉壽により創建。

靈鷲山無生道場(中国語版)

日本における臨済宗明菴栄西

宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に喫茶とともに渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代初期以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄龍派の教えだが、俊?(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった[3]。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。

同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していった[4]

江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが[5]、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、愚堂東寔一糸文守無著道忠を輩出している。一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。また、江戸時代は各宗派において学林が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った[6]
主な法嗣の系統

臨済義玄 - 三聖慧然・興化存奨 - 南院慧? - 風穴延沼 - 首山省念 - 汾陽善昭 - 石霜楚円(慈明禅師)

黄龍慧南(黄龍派)

晦堂祖心 - 死心悟新霊源惟清 - 長霊守卓 - 無示介ェ - 心聞曇賁 - 雪庵従瑾 - 虚庵懐敞 - 栄西(千光派・建仁寺派)

雲庵克文 - 兜率従悦・?潭文準

東林常総


楊岐方会(楊岐派) - 白雲守端 - 五祖法演

仏鑑慧懃

仏眼清遠

圜悟克勤(仏果克勤)

大慧宗杲(大慧派) - 拙庵徳光

北?居簡 - 物初大観 - 晦機元煕

東陽徳輝 - 中巌円月(中巌派)

笑隠大? - 用章廷俊 - 無我省吾

石室祖瑛

梅屋念常


浙翁如? - 偃渓広聞大川普済


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