臨済宗大徳寺派
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臨済義玄

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国禅宗五家(臨済、?仰曹洞雲門法眼)の一つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗日本達磨宗黄檗宗普化宗)の一つ。また、鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。目次

1 歴史

2 日本における臨済宗

2.1 主な法嗣の系統


3 その他の国における臨済宗

4 伝統

5 悟り

6 公案体系

7 宗派

7.1 建仁寺派

7.2 東福寺派

7.3 建長寺派

7.4 円覚寺派

7.5 南禅寺派

7.6 国泰寺派

7.7 大徳寺派

7.8 妙心寺派

7.9 天龍寺派

7.10 永源寺派

7.11 向嶽寺派

7.12 相国寺派

7.13 方広寺派

7.14 佛通寺派

7.15 興聖寺派


8 葬儀式

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

歴史

臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。

臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。

南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

宋代の大慧宗杲と曹洞宗宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本における臨済宗

宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。


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