臨清市
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中華人民共和国 山東省 臨清市
清真東寺(東モスク)清真東寺(東モスク
聊城市中の臨清市の位置聊城市中の臨清市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度50分58秒 東経115度42分22秒 / 北緯36.84944度 東経115.70611度 / 36.84944; 115.70611
簡体字?清
繁体字臨清
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カタカナ転写リンチン
国家 中華人民共和国
山東
地級市聊城市
行政級別県級市
面積
総面積955 km²
人口
総人口(1999)70.9 万人
市区人口(2000)14.3 万人
経済
電話番号0635
郵便番号252600
行政区画代碼371581
公式ウェブサイト: ⇒http://www.linqing.gov.cn/

臨清市(りんせい-し)は中華人民共和国山東省聊城市に位置する県級市。かつて清河が近くを流れていたことから臨清と名づけられた。市の総面積は955平方km、人口は約72万人(1999年の調査では709,328人[1])で、うち市区人口は143,000人(2000年1月現在)。

古来、大運河に面した交通の要衝として、商業の街として栄えてきた。日中戦争当時の国民党軍の勇将・張自忠や文学者・季羨林らの出身地でもある。
地理

臨清市は山東省西部、黄河下流の沖積平野に位置し、地勢は平坦で西南から東北に向けて傾斜しており、海抜は29mから38mの間になる。古代から黄河の洪水の影響を受け、低い丘や窪地が交錯する微地形が形成されてきた。

臨清市は温暖湿潤気候に属し、年平均気温は12.8度であるが、これまでの最高気温は41.4度、最低気温は-22.1度と差が大きい。年平均降水量は590.4mmで、南風および偏南風が年間を通して吹く。無霜期は1年で平均205日。

市域内を流れる主な河川には衛河京杭大運河、古運河、馬頬河がある。
歴史

前漢により設置された清淵県を前身とするを。清淵県は巨鹿郡に属し、後には魏郡に属した。三国時代、および西晋の時期には冀州陽平郡に属している。五胡十六国時代には後趙が支配し、330年建平元年)には臨清県と改められ現在まで使用されている。唐朝772年大暦7年)に臨清県を廃止し永済県に統合、毛州瀛州貝州により管轄された。宋代から金代にかけては大名府などに、元代には中書省(腹裏濮州に、明代には山東省布政使司東昌府に属し、1489年弘治2年)には臨清県より臨清州に昇格した。

が築いた大運河はこの地に繁栄をもたらした。清代の臨清州は京杭大運河沿いの漕運の中心で、繁華な商業都市であった。さらに織物レンガなどの生産を行う工業都市でもあり、紫禁城などの建設に用いられたレンガもここから運ばれた。また明代には臨清は全国16大都市のひとつに数えられている[2]。現在の臨清に残る仏塔やモスク、運河の関所などの史跡の多くは明代にさかのぼる。

中華民国が建国されると、1912年民国元年)の州制廃止に伴い臨清は再び県となり、まず済西道に、次いで東臨道徳臨道に属した。1945年9月に中国共産党による実効支配が始まると冀南行署第一専署の下に臨清県および臨清市(県中心部に分割設置)が設置された。中華人民共和国の建国当時は臨清県及び臨清市は河北省邯鄲の管轄とされたが、1952年11月の行政区画変更により山東省徳州専区に属し同年12月には聊城専区に移管されている。1958年に臨清県と臨清市を統合し新たな臨清市とされたが、1963年に再び臨清県とされている。1983年に県級市の臨清市が設置され現在に至っている。
経済

市内には105万1,100の農地があり、主な農作物はコムギトウモロコシ綿花など。特に綿花栽培の歴史が長く、「棉郷」の呼び名があり、中国の優質綿基地のひとつになっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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