膝丸
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この項目では、日本刀について説明しています。鎧については「源氏八領」を、漫画の登場人物については「テラフォーマーズ」をご覧ください。

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膝丸(ひざまる)は『平家物語』の「剣の巻(つるぎのまき)[1]」等の伝承において語られる太刀。髭切とともに清和源氏が代々継承した名刀とされる。源義経曾我兄弟の仇討ちと縁が深い。

また、膝丸として伝えられる刀が複数存在する。本項では大覚寺所蔵の薄緑(重要文化財)、箱根神社所蔵の薄緑丸、および個人所蔵の銘長円の薄緑についても解説する。目次

1 概要

2 物語上の記述

2.1 金刀比羅本『平治物語』による記述

2.2 『平家物語』剣の巻による記述

2.3 『吾妻鏡』による記述

2.4 『曽我物語』による記述

2.5 『義経記』による記述

2.6 『剣讃談』による記述


3 膝丸として伝えられる刀剣

3.1 大覚寺所蔵の薄緑

3.2 箱根神社所蔵の薄緑丸

3.3 銘 長円の薄緑(個人蔵)


4 膝丸が登場するその他の作品

4.1 文化財

4.2 テレビ番組


5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 関連項目

7 参考文献

概要

膝丸という名は『平家物語』の「剣の巻[注釈 1]」に現れるが、何度も改名を繰り返したことになっており、源頼光頼光四天王土蜘蛛退治の物語に結びついた蜘蛛切や、源義経が命名したという薄緑(うすみどり)など、別名もそれぞれ逸話を伴って知られている[2][3]。さらに『曽我物語』や幸若舞の『剣讃談』はそれぞれ「剣の巻」と異なる名の変遷を伝える[4]

また、特に南北朝以降流行した中世の刀剣伝書は、これらの太刀についてさまざまな説を記載している[5]。一つの本が複数の異説を載せていることもしばしばあり、例えば『佐々木本銘尽』(1484年、1588年書写)は、刀工「長円」の作った源義朝の薄緑を義経が箱根権現に奉納し曽我五郎の所持になった説と、「助平」の作で曽我五郎が敵討ちをした説、「我里」の作が義家から義経を経て箱根の別当により曽我五郎へ与えられた説、「真守」の作を箱根別当が曽我五郎へ与えた説等を載せる。刀剣伝書には他にも様々な刀工の説が収録されている[6]
物語上の記述
金刀比羅本『平治物語』による記述

金刀比羅本『平治物語』源氏勢汰への事では、薄緑は源朝長の太刀として登場する。膝丸という刀は登場せず髭切だけが源家重代の刀として語られる。
『平家物語』剣の巻による記述

平家物語』剣の巻では、平安時代源満仲が呼び寄せた「筑前国三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」により、八幡大菩薩の加護を得て髭切と揃いで作られた二尺七寸の太刀とされているが、伝本により諸説ある。罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来である[注釈 2]

この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた山蜘蛛(土蜘蛛と同一視される)を切り名を蜘蛛切と改めた[7]源頼基源頼義源義家を経て源為義の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので吼丸と名を改めた[8]。その後、為義の娘婿である熊野別当行範に引出物として譲られたが、行範は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え熊野権現に奉納した[9]。後に熊野別当湛増から源義経に吼丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改めた[10]。その名は熊野の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納した[11]。だが、薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。

薄緑はその後、箱根別当行実から曾我五郎(曾我時致)に渡され、曾我兄弟の仇討ちを経て源頼朝のもとに渡りそこで髭切と一具に戻った[11]。以上のように剣の巻では語られる[注釈 3]

刀剣伝書『能阿弥銘尽』では、長円作の薄緑を源義経が平家追討に西国へ行く際に箱根権現に納め、後に別当から曾我五郎に渡り仇を討ったと書かれている[6]
『吾妻鏡』による記述

吾妻鏡』では、文治元年(1185年)10月19日の記録で、かつて源義朝後白河法皇に吠丸という御護りの御剣を献上したが2年前に紛失していたのを大江公朝が探し出して献上した、と記載がある。また翌日20日の記録では、寿永2年(1183年)の平家都落ちの際に平清経が後白河法皇の院御所の法住寺殿から吠丸と一緒に奪った鵜丸という御剣を源範頼が九州遠征の際に取り戻して献上した、とある。鵜丸は源為義に与えられていたが、為義の死後は朝廷に返されていた。
『曽我物語』による記述

曽我物語』では、義経は鞍馬寺毘沙門天に祈り夢想を得て、源義朝が平治の乱の戦勝祈願に鞍馬に納めた二尺八寸の源氏重代の太刀を寺から盗み出した。『曽我物語』は異本・類本が多数ありそれぞれ細部が異なり、義経が箱根権現に刀を奉納する理由は平家征伐や木曽義仲討伐の戦勝祈願、頼朝との仲直り祈願と本ごとに様々である。後に箱根別当から兵庫鎖の太刀として曽我五郎に餞別に贈られ仇の工藤祐経を討ち、源頼朝の手に渡った。『曽我物語』や能・人形浄瑠璃・歌舞伎の曽我物では義経が使っていた太刀の名前は友切(剣巻では髭切の別名)とされることが多く、源氏重代の太刀はこの一振のみ語られる事も多い。仮名本『曽我物語』では巻八 箱根にて暇乞の事 で「てうか(朝霞)、虫ばみ、毒蛇、姫切、友切」と名を変えた話が語られる他、巻九 五郎召し取らるる事 で曽我兄弟の仇討ちに際して頼朝が重代の髭切を手に出ようとして家臣に諌められる場面があり、ここでは友切と髭切が別物として描写されている。真名本や大石寺本では頼朝の太刀に名前はない。
『義経記』による記述

義経記』では義経は子供の頃、鞍馬寺で別当東光坊の阿闍梨から守刀として今剣を授けられ平家討伐の折にも鎧の下に持ち、最期はこれで自害した。義経はまた(剣の巻の膝丸と同じく)熊野別当より受け取った二尺七寸の黄金造りの太刀(こがねつくりのたち)も持っており、これは兄の頼朝に追われる途中の吉野の山中で一人残る佐藤忠信に餞けに贈られた。忠信は追っ手の軍勢と奮戦するが最期は切腹した後にこの義経より賜った太刀で喉を貫いて自害した。義経は牛若時代に貴船で修行する時や五条で弁慶に出会った時も黄金造りの太刀を帯びており、千本目の太刀として求める弁慶に「是は重代の太刀にて叶うまじ」と断る場面もあるが、これらが全て同一の太刀の設定かははっきりしない。


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