腆支王
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腆支王

各種表記
ハングル:???
漢字:腆支王
発音:チョンジワン
日本語読み:てんしおう
ローマ字:Jeonji-wang
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腆支王(てんしおう、生年不詳 - 414年[1])は百済の第18代の王(在位:405年 - 414年[1])。
来歴

先代の阿?王の長男。『三国史記』ではの記載がないが『翰苑』に引用される『宋書』『通典』では百済王夫余腆と記されている。『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞支王と記される。夫人は近年の研究で倭人であることが有力視されている八須夫人[2][3][4][5]。子に久尓辛王
即位まで

394年2月に太子に立てられ、397年 (応神天皇8年〔277年→397年〕)に人質として倭国に赴いた(『日本書紀』、『三国史記』共に対応する記事あり)。

405年9月に阿?王が薨去すると、いったんは阿?王の次弟の訓解(くんかい、フンネ)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の?礼(せつれい、ソルレ)が訓解を殺して王位を簒奪した。倭国で阿?王の死を聞いた腆支王は、哭泣するとともに帰国することを応神天皇に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。百済国人は?礼を殺して腆支王を迎え入れ、百済王として即位した[6]

治世

407年には庶弟の余信、外戚の解須解丘らを佐平(1等官)に置くなどして王を中心とした権限の集中化を図り、408年に初めて上佐平の官を設け、佐平の余信を当てて軍事・国政を統帥させることとなった。

409年、倭国の応神天皇より太陽光を当てると暗闇でも光る夜明珠を下賜される[7]

414年3月に在位9年にして薨去した[8][9]

腆支王の王妃の出自

金鉉球[2]盧重国[3]、金起燮(朝鮮語: ???、公州大学[4]、洪性和(朝鮮語: ???、建国大学[10][5]等の韓国の研究者たちは、腆支王の王妃である八須夫人倭人だったと主張している。

腆支王は、394年2月太子に立てられ、397年人質として倭国に赴いた(日本史料『日本書紀』、朝鮮史料『三国史記』ともに対応記事がある)。『三国史記』は「質(朝鮮語: ?)」と表記したが、その実は軍事支援の要請とみられるが、阿?王は軍事支援の要請にわざわざ太子である腆支王を派遣したのか、そして軍事支援の要請者を「質」と表記したのか、という疑問が生じる[4]。当時の腆支王の年齢は10代前半の幼年であり、また、腆支王は394年2月に太子に立てられているため、阿?王が倭国に腆支王を派遣したのは軍事支援の要請ではなく、百済王の太子(腆支王)を保護するためだったという見解がある[4]

397年、阿?王が腆支王を倭国に派遣した状況を『三国史記』は、「夏五月,王與倭國結好,以太子腆支爲質」と記した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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