脊髄幹麻酔の歴史
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麻酔 > 脊髄幹麻酔 > 脊髄幹麻酔の歴史ジェームズ・レナード・コーニング(英語版)(1855?1923)、アメリカの神経学者脊髄幹ブロックのパイオニア

脊髄幹麻酔の歴史(せきずいかんますいのれきし)は、1885年に遡る。
19世紀アウグスト・ビーア(英語版) (1861?1949)、脊髄くも膜下麻酔のパイオニア

1855年、フリードリヒ・ゲードケ(英語版)(1828 ? 1890)は、植物コカの最も強力なアルカロイドであるコカインを最初に化学的に単離した[1]。ゲッケはこの化合物を「エリスロキシリン」と名付けた[1][2][3]。この命名はコカの学名、Erythroxylum cocaに由来する[2]

1884年、オーストリアの眼科医カール・コラー(英語版)(1857 ? 1944)は、コカインの2%溶液を自分の目に注入し、針で目を刺して局所麻酔薬としての効果をテストした[4]。彼の調査結果は、数週間後にハイデルベルグ眼科学会の年次集会で発表された[5]。翌年、ウィリアム・スチュワート・ハルステッド(1852 ? 1922)が最初の腕神経叢ブロックを行った[6]。また、1885年にジェームズ・レナード・コーニング(英語版)(1855 ? 1923)は、最初は犬に、次に健康な男性に、下部腰椎棘突起の間にコカインを注射した[7][8]。彼の実験は、脊髄幹ブロックの原理に関する最初の公表論文である[9]

1898年8月16日、ドイツの外科医アウグスト・ビーア(英語版)(1861 ? 1949)は、キール脊髄くも膜下麻酔下で手術を行った[10]。翌年には日本でも臨床に応用され、名古屋の北川乙次郎、金沢の東良平が1901年に第3回日本外科学会で臨床例を発表した[11]。1899年にビーアの実験が発表された後、ビーアとコーニングのどちらが最初に脊髄くも膜下麻酔に成功したかについて論争が起こった[12][13]

コーニングの実験がビーアの実験よりも先行していたことは間違いない。しかし、何年もの間、コーニングの注射がくも膜下腔または硬膜外腔、どちらのブロックであったかについて論争が集中していた。コーニングが使用したコカインの投与量は、ビーアとテオドール・タフィエ(英語版)が使用した量の8倍であった。このはるかに高い用量にもかかわらず、コーニングのヒト被験者における鎮痛の開始はより遅く、感覚脱失のデルマトームはより低かった。また、コーニングは自身の報告で脳脊髄液の流出を見たことを説明していなかったが、ビーアとタフィエの両方がこれらの観察を行った。コーニング自身の実験の説明に基づくと、彼の注射はくも膜下腔ではなく、硬膜外腔に行われたことが明らかである[13]。結局のところ、脊髄神経脊髄に対するコカインの作用機序に関するコーニングの理論は誤りであった。彼は、コカインは静脈循環に吸収され、その後に脊髄に運ばれると-誤って-提唱した[13]

脊髄くも膜下麻酔を医学の臨床に導入したのはビーアであるが、最終的に脊髄くも膜下麻酔と硬膜外麻酔の両方の開発につながる実験条件を整えたのはコーニングである[13]
20世紀硬膜外麻酔の手技を記載したフィデル・パジェス(英語版)による原画1909年の第2次メリリャ戦役中、スペインのメリリャにあるドッカー病院で負傷した男性を訪ねるフィデル・パジェス(英語版)。ドッカー病院は、1926年にパジェスにちなんで改名された。

ルーマニアの外科医Nicolae Racoviceanu-Pite?ti (1860?1942)は、くも膜下鎮痛にオピオイドを使用した最初の人物である。彼は1901年にパリでの経験を発表した[14][15]

1921年、スペイン軍の外科医フィデル・パジェス(英語版)(1886 ? 1923)が腰部硬膜外麻酔の現代的手技を開発した[16]。これは1930年代にイタリアの外科教授アキッレ・マリオ・ドリオッティ(イタリア語版)によって普及された(1897 ? 1966)[15]


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