脇谷亮太
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脇谷 亮太読売ジャイアンツ 二軍内野守備兼走塁コーチ #85
巨人時代
基本情報
国籍 日本
出身地大分県大分市
生年月日 (1981-11-04) 1981年11月4日(42歳)
身長
体重177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手外野手
プロ入り2005年 大学生・社会人ドラフト5巡目
初出場2006年6月4日
最終出場2017年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


柳ヶ浦高等学校

日本文理大学

NTT西日本

読売ジャイアンツ (2006 - 2013)

埼玉西武ライオンズ (2014 - 2015)

読売ジャイアンツ (2016 - 2018)

コーチ歴


読売ジャイアンツ(2023 - )

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脇谷 亮太(わきや りょうた、1981年11月4日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

愛称は「ワッキー」[1]、「ワキさん」[2]
経歴
プロ入り前

父親が社会人野球チームの投手だったことから野球に興味を持ち、小学2年生の時に地元のチーム「ふじが丘少年野球団」で野球を始める。ポジションは当時からプロ入り後と同じく遊撃手・三塁手だった。柳ヶ浦高等学校時代は、2年夏に甲子園出場するものの、控えのベンチ入りで出番はなく、1回戦で松坂大輔を擁する横浜高校に敗れた。日本文理大学硬式野球部では四年次に主将を務め、2003年全日本大学野球選手権大会で大学日本一を経験、同大会MVPに輝いた。

卒業後はNTT西日本に進み、俊足の三塁手として第31回社会人野球日本選手権大会で優秀選手賞に選ばれるなどの活躍を見せた。2005年の大学・社会人ドラフト5巡目で巨人に指名され、入団。背番号は「57」。

ドラフト会議の際、指名はないと思っていた脇谷はチームの通常練習に参加しており、慌てて会見場に向かう途中には「ドッキリカメラじゃないか」とユーモアも交えて感想を述べた。なお、同年のドラフトではNTT西日本から5人が指名されている[3]
巨人時代

2006年(1年目)に、イースタン・リーグで8打席連続安打を記録し、6月4日の対西武ライオンズ戦で、小久保裕紀に代わり一軍登録、即先発出場を果たした。この試合で9回裏に三塁打を放ち、清水隆行犠飛で本塁に生還し、チームのサヨナラ勝ちに貢献した。さらに6月8日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、斉藤和巳完全試合ノーヒットノーランを阻止する投手内野安打を放ったが、直後に牽制でアウトとなり、結果的に打者27人の準完全試合を決められた。なお、翌2007年3月4日の対ソフトバンク戦(オープン戦)でも、9回二死の状況で完全試合を阻止するこの試合唯一の安打を放っている。同年シーズン後半は1番・二塁手として固定され、2番・中堅手の鈴木尚広と「ダブル1番」として出場[注 1]。8月15日の対東京ヤクルトスワローズ戦では1番・二塁手でスタメン出場すると、5打数4安打の猛打賞の活躍を見せたほか、10月5日の対横浜ベイスターズ戦では土肥義弘からプロ初本塁打を放った。シーズンでは後半戦200打席超で、打率.270の成績を残した。

2007年に、「同学年で同じ1番打者のヤクルト(当時)・青木宣親を目標にして活躍してほしい」という原からの期待で背番号を「23」に変更[4]、主に二塁手として出場し、木村拓也ルイス・ゴンザレスと併用された。優勝争いのかかった9月26日の対中日ドラゴンズ戦では朝倉健太から逆転本塁打を放ち、勝利に貢献。91試合に出場し、打率.282と前年を上回る成績を残した。クライマックスシリーズでは全試合にスタメン出場したが、守備に精彩を欠き、全試合で途中交代となった。11月2日からの若手・中堅選手中心の秋季キャンプでは野手キャプテン・強化指定選手に指名された。

2008年は二塁手のレギュラー獲得を期待されながら、木村と寺内崇幸の後塵を拝し、出場機会はプロ入り後最少の56試合の出場に終わり、シーズンを通して打率.208と低調であった。一方で、日本シリーズの対西武第5戦では、同点で迎えた7回表に涌井秀章から決勝の2点適時三塁打を放っている。

2009年に木村の不振により二塁手でスタメン起用される機会が増え、89試合の出場で打率.268の成績を残した。9月28日には初めて3番打者で出場。クライマックスシリーズ3回戦では、8回裏に中日・浅尾拓也から代打逆転決勝2点適時二塁打を放ち、3打数1安打の成績ながらシリーズMVPを受賞。ヒーローインタビューでは「3試合でトータル10分くらいしか試合に出ていないんですけどいいのかな、という気持ちです」と述べた[5]

2010年は、5月3日の対ヤクルト戦で、自身プロ入り初の満塁本塁打を放ち、8月5日の対阪神タイガース戦では、15試合連続得点のセ・リーグ記録を達成[6]。守備は、10月2日の対横浜23回戦では、3回に内川聖一の三ゴロを捕球したことをきっかけに三重殺を達成。巨人として2001年以来9年ぶりであった[7][8]。このシーズンは自己最多の132試合に出場し、初めて規定打席に到達(巨人の二塁手の規定打席到達選手は2005年の仁志敏久以来)。打率.273・7本塁打・43打点。走塁技術にも磨きがかかり、リーグ最多の三塁打(8本)、チーム最多となる28盗塁(盗塁死は5)を記録した。一方で5月と9月は打率1割台と好不調の波が大きく、10月8日のヤクルト戦では同点に追いつかれた9回裏に二死満塁で打席が回ってきたが二塁ゴロに倒れてサヨナラのチャンスを逃してしまい、チームも敗れクライマックスシリーズの本拠地開催権を確保できなかった。また2番打者で起用された際に度々バントや進塁打を失敗するなど、多くの課題も残した。

2011年は、プロ6年目で初の開幕スタメン(2番・二塁手)を勝ち取った[9]。同年4月20日の阪神タイガース戦での7回の二塁守備において、クレイグ・ブラゼルが打ち上げたフライを一度落球してから捕ったが、アウトとなった。しかし、阪神の真弓明信監督が、審判の判定は誤審であると抗議するも判定が覆らなかった。ビデオでボールが一度グラウンドに落ちたことは明らかだったが、この判定について脇谷はスポーツニッポンの取材に「捕りましたよ。自分の中ではスレスレのところでやってますから。VTR?テレビの映りが悪いんじゃないですか」とコメントした[10][注 2]。そしてこの後、5月に打撃不振に陥ったため、二軍で再調整を強いられ、その間に藤村大介に二塁手のレギュラーを奪われた。7月5日の対ヤクルト戦で右翼に打球を放った直後に痛みを訴え、病院で右手有鈎骨の骨折が判明し、手術を行った[11]、10月1日まで戦列を離れた。シーズン終了後の11月21日に球団側から自由契約通知がされた[12]


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