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出典検索?: "脇坂安親"
凡例脇坂安親
時代江戸時代中期 - 後期
生誕元文3年12月19日(1739年1月28日)
死没文化7年5月14日(1810年6月15日)
改名熊五郎(幼名)、安親
戒名正秀院殿
墓所京都府京都市右京区花園の妙心寺隣花院
東京都中野区上高田の青原寺
官位従五位下・淡路守、図書頭
幕府江戸幕府
主君徳川家重、家治
藩播磨龍野藩主
氏族堀田氏、脇坂氏
父母父?堀田正陳
母?水谷勝比娘
養父?脇坂安種、脇坂安実
兄弟堀田正邦、本多正命、本多助友、安親、
屋代忠良
妻上田義当娘
子安教、安董、安積、安致、六角広胖、釧、板倉勝長正室、阿琴、直
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脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。官位は従五位下・淡路守、図書頭。 元文3年(1738年)12月19日、近江国宮川藩3代藩主・堀田正陳の四男として誕生した。 龍野藩3代藩主・脇坂安清の弟・安利は、宝永7年(1710年)に2000石を分与されて旗本となっていたが、その長男である安種には嗣子がなかった。このため寛延2年(1749年)2月29日、安親が養子となって2000石の家督を継いだ。脇坂家は安利の祖父にあたる安政が堀田家から養子入りしており、正陳の曾祖父の堀田正信は安政の兄であった。家督相続後は小普請に所属した。 宝暦9年(1759年)に本家の6代藩主・脇坂安実が早世する。安実にも嗣子がなかったため、同年7月27日に安親が養子となりその家督を継いだ。なお、旗本としての脇坂家は廃家となる。9月1日、9代将軍・徳川家重に御目見した。12月7日、従五位下・淡路守に叙位・任官する。幕命により、追手組防火職・桜田防火職・江戸城桜田門番・勅使や朝鮮通信使、大納言などの接待役などを務めた。天明4年(1784年)4月13日、次男の安董に家督を譲って隠居する。隠居後は図書頭を称した。
生涯
養父:脇坂安種(1712年 - 1749年)、脇坂安実(1745年 - 1759年)
正室:上田義当娘
長男:脇坂安教(1762年 - 1781年)
次男:脇坂安董(1767年 - 1841年)
生母不明の子女
三男:脇坂安積
五男:脇坂安致
六男:六角広胖(1776年 - ?) - 六角広孝の養子
女子:釧 - 北条氏ム正室
女子:板倉勝長正室
女子:阿琴 - 田村村資正室