能面
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。能面「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}増女(ぞうおんな)」江戸時代、東京国立博物館蔵(金春宗家伝来)、重要文化財

能面(のうめん)は、で用いられる仮面である。
概要

能面は、能を演ずる際にシテ方が着ける面である。式三番)で用いられる面(式三番面、翁面)は、狭義の能面には含まれないが[1]、能面に含めて呼ぶこともある[2]。本項では翁面についても述べる。

鎌倉時代13世紀)には、翁猿楽で翁面が用いられていたようであり、これが能面の源流と考えられる。南北朝時代猿楽田楽の発展に伴い、能面の創作が始まったとされ、室町時代初期の世阿弥の時代、猿楽(申楽)が大成するのと同時期に、日本各地で優れた面打ちが輩出し、鬼面・女面をはじめとして徐々に面の種類が増えていった。室町時代後期から安土桃山時代にかけて、面の種類が出揃い、曲目と面との対応関係も確立し、能面は完成期を迎えた。江戸時代には、世襲の面打ち家が代々面打ちを行うようになり、この時代になると新たな創作はあまり行われず、室町時代の「本面」を忠実に模作することが中心となった。明治時代には、能楽界が衰微し、世襲面打ち家も絶えた。多くの能面が日本国外に美術品として流出した(→歴史)。

能面を制作することを「打つ」という。材質はヒノキが一般的であり、木取りをした後、最初は荒く、徐々に細かく彫り進め、目鼻口の穴を開けると、面裏の漆塗りをするのが一般的である。彩色(さいしき)に移ると、胡粉を用いて下地・上地を塗り、古色を施し、毛描きなどの工程を経て完成する(→面打ち)。

能楽師は能面を面(おもて)と言い、面を着用することを「面をかける」「つける」と言う。面は、鬼神や亡霊など超人間的な役、老人と女性の役などに用いられ、現実の壮年の男性の役は、面をかけず、素顔(直面(ひためん))で演ずるのが原則である(→面と直面)。同じ曲目・役柄でも、流儀によって面の選択の好みがあり、また、面の「位」や、役柄に対する解釈や趣向によって、どのような面を使うかが変わってくる。(→面の選択)。

能楽師は、面を極めて丁重に取り扱う。シテやツレは、楽屋で装束を着けた後、揚幕の奥にある鏡の間で面に向き合い、両手で押しいただく。そして、後見らが紐を張って面をかける(→面をかける作法)。舞台で、面に生きた表情を与えることは技量が求められ、特に女の面は微妙な「中間表情」を持っているとされ、わずかに面を下に向ける(曇(クモ)ラス)、上に向ける(照(テ)ラス)などといった扱い方によって、観客から見た効果が変わってくる(→舞台上の効果)。

現在知られる面の名称は約300、面種は約250に及ぶとされるが、基本の面種は約60種類で、約60種類をそろえれば、約240曲の現行曲のほとんどを上演することができると言われる。役柄によって大まかに分類すると、人間の面は、老体面(尉面)・女体面(女面)・男体面(男面)と分けることができ、その中にも、穏やかな表情のもの(常相面)と、非日常的なすさまじさを持った表情のもの(奇相面)とがある。また、鬼や天狗などの異類の面(鬼面、異相面)もあり、これも老体・女体・男体の異類に分けることができる(→種類)。主な面種の例については、一覧表を参照(→主な面種(能面・翁面)の例)。
歴史
ルーツ.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}伎楽面「治道(ちどう)」(左)と「呉女(ごじょ)」。いずれも法隆寺献納宝物

飛鳥時代推古天皇20年(612年)、百済味摩之が、呉(中国南部)から伎楽を伝えたとされている。これは仮面である伎楽面を用い、寺院に向かって行列を組むもので、道中で寸劇を演じることもあった。伎楽面は、後頭部まで覆う大型面で、鼻が高いのが特徴である。伎楽面の「呉女」は能面の女性面に影響を与えているとされる[3]舞楽面「貴徳」(左)と「採桑老」。採桑老は翁面の原型とされる[4]

伎楽に続いて、宮中儀式芸能として舞楽が大陸から伝来した。舞楽面は、伎楽面のように後頭部まで覆うものではなく、小さめである。口のところを上下に切り、口の左右を紐で結ぶ「切り顎」、下顎を紐で吊る「吊り顎」形式のものなどがある。このうち「切り顎」のものは、翁面とも関係があるとされる[5]
翁面の時代

能楽の源流は、翁猿楽式三番)にあるとされ、翁猿楽が演じられたことを示す最古の記録は、13世紀末の奈良春日大社の祭礼記録にある。1283年弘安6年)の『春日若宮臨時祭記』には、次の記事があり、猿楽方の諸役の中で翁の役のみが「翁面(ヲキナヲモテ)」と呼ばれている[6]。猿楽 児虎松殿 翁面延覚坊 三番猿楽大輔公 冠者美之君 父允善永坊

式三番に用いられる面は、平安時代末期に創作され、鎌倉時代には完成していたようであり、父尉、翁(白式尉)、三番叟(黒式尉)、延命冠者の4面が用いられていたようである[7]。ベルリン国立民族博物館(英語版)所蔵の翁面には、面裏の漆の下に弘安元年(1278年)の墨書銘があり、翁面の造形が鎌倉中期には確立していたことが分かる[8]

なお、後世の言い伝えでは、翁面の最古の作家として聖徳太子、淡海公(藤原不比等または藤原鎌足)、弘法大師(空海)、春日(鞍作止利または稽文会・稽主勲)の4人を「神作」と呼んでいるが、荒唐無稽の説である[4]

世阿弥の言葉を記した『世子六十以後申楽談儀』には、「面の事。翁は日光打ち。弥勒、打ち手也。」とあり、翁面の優れた打ち手として日光と弥勒の2人が挙げられている[9]

4面のうち、延命冠者を除く3面は、顎が口の横から切り離されて紐で繋がれた「切り顎」という構造をとっており、他の能面にはない特徴である。切り顎は、声がこもらずに聴こえやすくするための構造とも考えられる[10]
創作期

南北朝時代以降、猿楽田楽が発展していったが、古来の伎楽面、舞楽面、神像仏像等の影響を受けながら、能面の創作が始まったとされる。1349年貞和5年)の四条河原での橋勧進田楽興行では、猿や鬼の面が使用され、同じ年の春日若宮臨時祭で禰宜が演じた田楽能では、龍神や龍王の役が面を着けたことが確認できる[11]

13世紀から14世紀にかけての初期の能面は、大衆芸能に用いられていたことを反映して、変化に富み、写実的であり、粗野な表情をしている。少女の能面も、口元や目にはっきりした笑いの表情が見られるものであった。能面の初期の彫刻技術は、当時広く演じられていた舞楽の面から取り入れられた可能性があるが、能面は、伎楽面や舞楽面とは異なり、大陸からの原型の忠実な複製ではなく、はっきりと日本人の顔立ちを表していることが特徴的である[12]

室町時代初期の世阿弥1363年? - 1443年?)の時代には、猿楽(申楽)が大きく発展し、それと同時期に、日本各地で優れた面打ちが輩出した。近江国では世阿弥が「鬼面の上手」と評した赤鶴(しゃくづる)(赤鶴吉成一透斎)、同じく「女面の上手」と評した愛智(えち)(愛智吉舟)が現れ、越前国では石王兵衛(いしおうひょうえ)(福来石王兵衛正友)、龍右衛門(たつえもん)(石川龍右衛門重政)、夜叉、文蔵(福原文蔵)、小牛(小牛清光)、徳若(徳若忠政)といった面打ちが続き、これらは『申楽談儀』に言及されている[13]。ただ、世阿弥伝書の中に見出すことができる面の呼び名は、翁面のほかには、鬼神系の大べしみ・小べしみ・飛出・鬼面・悪尉、尉面・笑尉、女面、男面と、10種に満たず、後世のような分化はまだ起こっていなかったと考えられる[14]。世阿弥の記述によれば、『鵜飼』の前シテの老人は直面であったといい、男面が出揃った時期は遅かったようである[15]

安土桃山時代下間仲孝が著した『叢伝抄(そうでんしょう)』(1596年)は、「面打ち上作之分」として、伝説上の人物から南北朝・室町時代にかけて活躍した偉大な面打ちを挙げて「十作(じっさく)」と呼んでいる[16]。翁之面?日光?弥勒、赤鶴 鬼、越智、龍右衛門 女 男 尉、夜叉、文蔵 女、小牛 尉、徳若 アヤカシ、三光 ベシミ 尉、日氷 霊、是を十作ともいふなり ? 下間仲孝『叢伝抄』

また、十作に少し時代的に後れ、十作に次ぐ格の面打ちとして、「六作」という呼び方もされた。誰を六作とするかは伝書によって異なるが、増阿弥、千種、福来、宝来、春若、石王兵衛などがこれに当たるとされる[16]
完成期

室町時代後期から安土桃山時代にかけては、面の創作が続けられるとともに、様式が完成してきて、種類もほぼ出揃った。曲目と面との対応関係も確立してきて、下間仲孝が著した能の型付『童舞抄(とうぶしょう)』には、『海士』の前シテ(海士)には「ふかひ・しゃくみ」、後シテ(竜女)には「泥眼」または「ぞう」、「観世には橋姫の面」というように、曲ごとの使用面が書かれている[17]。室町時代の面は本面(ほんめん)と呼ばれ、江戸時代以降の能面の理想・規範とされた[18]

豊臣秀吉は、伝説の名人龍右衛門の3面の「小面」に「雪・月・花」と名付けたと伝えられる。そのうち、月の小面は江戸城で火災に遭って焼失したが、雪の小面は金剛宗家、花の小面は三井記念美術館に伝えられている[19]

この時代に活躍した面打ちには、伝説上の人物も含め、三光坊、大光坊(だいこうぼう)、般若坊、真角(しんかく)、東江(とごう)、財蓮、慈雲院、吉祥院、智恩坊、角(すみ)ノ坊、氷見(ひみ)(日氷)、若狭守など、仏師や僧が多い[16]
模作期龍右衛門作と伝えられる「雪の小面」を江戸時代初期に写したもの。井関家四代の河内家重作を示す河内印がある。「雪の小面」と同じクスノキを用い、面裏の様子も全て写している[20][21]橘岷江『彩画職人部類・下』(1784年再刻)。制作中の面打師の姿が描かれている。

江戸時代には、能は幕府の式楽として保護され、諸大名も、競って古面や名品を蒐集したり、本面を面打ちに写させたりした。新たな創作はあまり行われなくなり、模作中心となった[22]。本面の写し方は徹底しており、彩色の刷毛目や、鑿跡、面に付いた傷、彩色の剥落まで写しているものもある[23]

1532年天文元年)に亡くなったと伝えられる三光坊満広の流れを汲む越前出目(でめ)家、近江井関家、大野出目家の三家が桃山時代に成立し、これらが江戸時代まで続く世襲面打ち家となった。後に、越前出目家から児玉家と弟子出目家が派生した[24]

越前出目家・江戸出目家[25][越前出目家初代]二郎左衛門満照(みつてる) - [2代]則満(のりみつ) - [3代]古源助秀満(ひでみつ) - [江戸出目家初代]古源休満永(みつなが) - [2代]元休満茂(みつしげ) - [3代]元休満総(みつふさ) - [4代]元休満真 - [5代]満志(みつゆき) - [6代]元休満光(みつてる) - [7代]源助満守(みつもり)

近江井関家[初代]井関上総守親信(ちかのぶ) - 大光坊幸賢(だいこうぼうこうけん)[2代]次郎左衛門親政(ちかまさ)[3代]備中守家久(いえひさ) - [4代、江戸井関家]河内大掾源家重(いえしげ) - [弟子]大宮大和真盛(さねもり)

大野出目家[初代]是閑吉満(ぜかんよしみつ) - [2代]友閑満庸(ゆうかんみつやす) - [3代]助左衛門 - [4代]洞白満喬(とうはくみつたか) - [5代]洞水満矩(とうすいみつのり) - [6代]甫閑満猶(ほかんみつなお) - [7代]友永庸久(ゆうすいやすひさ) - [8代]長雲庸吉(ちょううんやすよし) - [9代]洞雲庸隆(とううんやすたか) - [10代]助左衛門 - [11代]助太郎 - [12代]杢之進 - [13代]丘作

児玉家[江戸出目家初代満永の養子]近江満昌(みつまさ) - [2代]長右衛門朋満(ともみつ) - [3代]長右衛門能満(よしみつ)

弟子出目家[江戸出目家初代満永の婿]古元利栄満(こげんりよしみつ) - [2代]元利寿満(かずみつ) - [3代]元利右満(すけみつ)

江戸時代後期に喜多流九世宗家・喜多七太夫古能が著した『仮面譜』では、古来からの作品から新しいものまでを格付けして、十作、六作、古作、中作、中作以降というように整理している[26]
近現代

明治維新後、幕府や藩の庇護を失った能楽界は衰微し、世襲面打ち家も絶えた[27]。他方で、日本国外では美術品として珍重された[28]。しかし、木材は大気を吸湿する為、温・湿度の差により、彩色の剥落が起こりやすい[29]

現代[いつ?]に制作された面は、「新面」と呼ばれ価値が低いとされてきたが、近年[いつ?]では、正当に評価され、舞台に使用されるようになった。その背景には、古作の面を度々舞台で使用することが、保護や保存の観点から控えられるようになったという事情もある[30]。創作面は、ほとんど使用されることがないが、新作能が上演される場合には制作・使用されることがあり、一例として、1943年(昭和18年)の新作能『世阿弥』には、面打師北澤耕雲制作の「世阿弥」の面が用いられた[31]
面打ち能面の制作工程彩色前の能面


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