能褒野王塚古墳
墳丘全景(右手前に前方部、左奥に後円部)
所属能褒野古墳群
所在地三重県亀山市田村町字女ヶ坂
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度53分4.36秒 東経136度28分55.09秒 / 北緯34.8845444度 東経136.4819694度 / 34.8845444; 136.4819694
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は、三重県亀山市田村町にある古墳。形状は前方後円墳。能褒野古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている。別称を「丁子塚(ちょうじづか)」とも。
伊勢北部地方では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀末(古墳時代中期初頭)[注 2]の築造と推定される。
概要能褒野神社
三重県北部、御幣川・安楽川(いずれも鈴鹿川支流)合流地点から東方北岸の台地西端部に位置する古墳である[2]。周辺には10数基の古墳が分布し、これらは「能褒野古墳群」と総称される[3]。古墳群中で最大規模の本古墳は、かつて「丁子塚」と称されていたが、これは前方後円墳の形状が銚子になぞらえられたことによる[3]。1879年(明治12年)に宮内省(現・宮内庁)により皇族墓に治定されたため現在まで同庁の管理下にあり、これまで1929年(昭和4年)に帝室林野局による測量調査[3]、2013年度(平成25年度)に宮内庁書陵部による墳丘測量調査および周囲古墳の試掘調査が実施されたが[4]、主墳の発掘調査は実施されていない。
墳形は前方後円形で、前方部を南東方に向ける[2]。墳丘長は90メートルを測り、伊勢北部地方では最大規模になる[5][注 1]。外形は前期の柄鏡形から中期古墳への移行期を呈する[3]。墳丘のうち後円部は2段または3段築成、前方部は1段築成[4]。墳丘表面からは鰭付円筒埴輪・器財埴輪などの埴輪片が検出されている[3]。また墳丘周囲には外溝・外堤が巡らされているが、現在に見るものは1880年(明治13年)の新設によるもので、元来の様子は明らかでない[3]。埋葬施設は詳らかでないが、言い伝えでは陵墓治定以前の墳頂には何人もの人が入れる盗掘坑があったといい[3]、元々は竪穴式石室であった可能性が指摘される[5]。
この能褒野王塚古墳は、古墳時代中期初頭の4世紀末の築造と推定される[5][6]。付近には同時期の名越古墳(前方後円墳、墳丘長60メートル)があり、両古墳は鈴鹿川流域で初めて前方後円墳として築造された古墳になる[6]。被葬者は考古学的には明らかでないが、『日本書紀』や『古事記』の伝承(後述)に基づき、現在では宮内庁により景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている[2]。この治定に伴い、1895年(明治28年)には古墳傍に日本武尊を祀る能褒野神社も創建されている。
なお付近では、奈良時代に至って伊勢国府(鈴鹿市広瀬町・西富田町の長者屋敷跡)が置かれている[4]。 墳丘の規模は次の通り[4]。
遺跡歴
近世
天明8年(1788年)の『能褒野陵考』に「丁子塚」の絵図[7]。
成立年未詳の『能煩野古墳図』に「丁子塚」の絵図・説明文[7]。
1879年(明治12年)、宮内省(当時)により日本武尊墓に治定[4]。
1880年-1885年(明治13年-18年)、兆域確定と周堤修補[4]。
1895年(明治28年)、能褒野神社創建。
1929年(昭和4年)、帝室林野局による測量調査[3]。
2013年度(平成25年度)、整備工事に伴う事前調査(宮内庁書陵部)。墳丘測量調査と周囲古墳(宮内庁治定陪冢)の試掘調査[4]。
2020年(令和2年)1月9日、考古・歴史学16学会代表による立ち入り調査。
墳丘
墳丘長:90メートル
後円部 - 2段または3段築成か。
直径:約54メートル
高さ:約8.5メートル