能福寺
月輪影殿(本堂)
所在地兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分4.76秒 東経135度10分17.01秒 / 北緯34.6679889度 東経135.1713917度 / 34.6679889; 135.1713917
能福寺(のうふくじ)は、兵庫県神戸市兵庫区にある天台宗の寺院。山号は宝積山。本尊は阿弥陀如来。兵庫大仏で有名。ビルシャナ殿は新西国三十三箇所第23番札所で本尊は十一面観音である。 寺伝では延暦24年(805年)に最澄(伝教大師)により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化霊場と称する。 平清盛所縁の寺としても知られており、治承4年(1180年)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに栄えた。その後、興国2年/暦応4年(1341年)に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、慶長3年(1599年)に長盛法印が再興したという伝がある。 江戸時代の寺格は京都青蓮院門跡の院家(門跡不在時の代理を務める格式の寺)であった。 太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月17日に行われた神戸大空襲で鐘楼堂を残して全焼したが、後に再建されている。 1995年(平成7年)1月17日に阪神・淡路大震災で本堂が被災し 鐘楼堂が倒壊したが、後に復興された。 1891年(明治24年)5月に豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された[1]。この大仏は1944年(昭和19年)5月に金属類回収令で解体されて国に供出されるまで日本三大仏の一つに数えられた[2]。 現在の大仏は1991年(平成3年)5月9日に再建されたものであるが、その材料には戦後になって解体された大仏を発見した当時の住職が回収保管し、再建時にその金属片を混入したものを使用している。毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになる巨大な坐像である。1991年5月の開眼法要には、奈良市の東大寺管長、鎌倉市の高徳院貫主が臨席した。 なお江戸時代には、奈良大仏(像高約14.7m)、鎌倉大仏(像高約11.39m)、方広寺大仏(京の大仏、像高約19m)の三尊が、日本三大仏と称されていた[3]。 平相國廟瀧 善三郎正信 碑
歴史
兵庫大仏
境内
月輪影殿(本堂) - 京都東山の泉涌寺寺域の墓陵(月輪御陵)にあったものを1954年(昭和29年)に宮内省と九条家により移築されたもの。1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災で被災するが、1997年(平成9年)12月に復興する。
納骨堂
護摩堂
兵庫大仏
ビルシャナ殿 - 大仏の台座の部分にある。新西国三十三箇所第23番札所で十一面観音を祀る。
庫裏 - 本坊。
講堂 - 1975年(昭和50年)建立。
北風正造君碑 - 兵庫の勤王豪商。碑文は伊藤博文の揮毫である。
ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)による寺の由来碑 - 日本最初の英文碑である。
當勝稲荷堂 - 2016年(平成28年)12月再建。
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