この項目では、北陸地方にある半島について説明しています。石川さゆりの楽曲については「能登半島 (石川さゆりの曲)」をご覧ください。
能登半島
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度15分23.6秒 東経136度52分43.1秒 / 北緯37.256556度 東経136.878639度 / 37.256556; 136.878639
能登半島(のとはんとう)は、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島でもある。近世以前は多くが能登国であったため、こう呼ばれる。 地形的には北から能登山地、能登丘陵、邑知潟低地帯、石動・宝達山地が位置している[1]。半島付け根部にあたる石動・宝達山地には石動山などの主稜線があり、富山湾側と邑知平野側の分水界であるとともに、付近には石川・富山県境がある[1][2](半島は大半が石川県に属するが、一部は富山県(氷見市)に属する)。半島東側の富山湾に面した海岸を内浦(うちうら)、半島西側の日本海に面した海岸を外浦(そとうら)と呼ぶ[3]。 能登半島の沿岸部は海成段丘が多くみられ、沿岸平野は中部の邑知潟低地帯付近を除いて小規模である[1]。輪島市などでは千枚田が見られ、中でも白米千枚田は有名である。海岸線を主体に広い範囲が能登半島国定公園に指定されている。なお、能登半島から約23km北方に七ツ島、約48km北方に舳倉島が位置している[4]。 半島北部北側の能登山地は多くは海抜300 - 400メートルの山々で、最高峰は高洲山(標高567メートル)である[1]。その南側の能登丘陵は能登山地とともに半島主要部を構成しており、地域区分では奥能登丘陵と中能登丘陵、さらにその東側の湾内(七尾湾)にある能登島に分けられる[1]。 半島中部の邑知潟低地帯は七尾市から羽咋市にかけて北東から南西方向に延びる低地帯である[1]。石動・宝達山地は邑知潟低地帯の南側の半島の付け根にあり、最高峰は宝達山(標高637メートル)である[1]。 「能登」の名は万葉集の大伴家持の歌などにもみられ、一説にはアイヌ語で岬を意味する「not」から来たという[5]。他に湾(ここでは七尾湾)を意味する飲み門(のみと)が由来との説もある[6]。 能登半島の歴史は約6000年前にまで遡る[7]。能登町にある真脇遺跡は約4000年間にわたる縄文時代の長期定住型遺跡として知られる[7]。また、七尾市にある縄文時代の遺跡である佐波遺跡からは、西日本各地で出土するものとよく似た出土品が発見されており、縄文時代から西日本文化圏との交流があったとみられている[7]。 718年に氷見地区を除く地域が越前国から能登国として分離した[7]。その後、能登国は越中国に併合されたが、757年に再び能登国として分立した(ただし氷見地区は越中国に含まれていた)[7]。 1986年(昭和61年)3月31日に「能登半島地域」として、石川県河北郡以北の12市町と富山県氷見市の13市町が半島振興法に基づく半島振興対策実施地域に指定された[8]。なお窪谷順次「農業開発計画のための地域分類」35頁の図によると旧押水町(現宝達志水町)と氷見市以北を能登半島地域としている[3]。
概要
歴史
地域富山湾側の風景(雨晴海岸)