能楽
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中尊寺鎮守 白山神社の能舞台
重要文化財日牟禮八幡宮の能舞台日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり

能楽(のうがく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:能樂)は、日本の伝統芸能であり、式三番)を含む狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。
歴史最古の能舞台、厳島神社唐織(からおり) 、江戸時代(18世紀)能衣装 狩衣 紺地石畳法螺貝模様、江戸時代、18世紀、東京国立博物館蔵

風姿花伝』第四によれば、能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えられている。江戸時代までは猿楽と呼ばれていたが、1881年明治14年)の能楽社の設立を機に能楽と称されるようになったものである。明治維新により、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者たちは失職し、猿楽という芸能は存続の危機を迎えた。これに対し、岩倉具視を始めとする政府要人や華族たちは資金を出し合って猿楽を継承する組織「能楽社」を設立。芝公園芝能楽堂を建設した。この時、発起人の九条道孝らの発案で猿楽という言葉は能楽に言い換えられ、以降、現在に至るまで、能、式三番、狂言の3種の芸能を総称する概念として使用され続けている。
明治維新後

江戸幕府の儀式芸能であった猿楽は、明治維新後家禄を失ったことにより他の多くの芸能と同様廃絶の危機に瀕した。明治2年1869年)にはイギリス王子エディンバラ公アルフレッドの来日に際して猿楽が演じられたが、明治5年1872年)には能・狂言の「皇上ヲ模擬シ、上ヲ猥涜」するものが禁止され、「勧善懲悪ヲ主トス」ることも命じられた。

しかし、明治天皇は明治11年(1878年)に青山御所に能舞台を設置し、数々の猿楽を鑑賞した。また欧米外遊の際に各国の芸術保護を実見した岩倉具視は、華族による猿楽の後援団体設立に向けて動き始め、明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントを自邸に招いて猿楽を上演させ、更に能楽社(のちの能楽会)の設立や明治14年(1881年)落成の芝能楽堂の建設を進めた[注 1]。この時、能楽社の発起人九条道孝らの発案で猿楽を能楽と言い換え、「猿楽の能」は「能楽の能」と呼ばれることになる[1]

明治維新後他の多くの芸能が絶えたなか、名称を能楽と言い換え猿楽の危機は過ぎ去った。だが、やがて各流派はお互いに排他的姿勢を見せるようになり、流派間の交流や共演は消滅していった。
昭和初期

その後、日中戦争が起こって戦時体制に入ると、皇室を多く題材とした能には厳しい目が注がれるようになり、昭和14年(1939年)、警視庁保安課は不敬を理由に「大原御幸」を上演禁止とした。その一方で、日清戦争日露戦争第二次世界大戦を題材とした新作能も作られるようになった。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦敗戦は、能の世界に大きな転機をもたらした。戦災によって多くの能舞台が焼失したため、それまで流派ごとに分かれて演能を行っていた能楽師たちが、焼け残った能舞台で流派の違いを超えて共同で稽古を行い始めたのである。そのため、若手の能楽師たちは他流派の優秀な能楽師からも教えを受けることが多くなり、大いに刺激を受けるようになった。観世銕之丞家の次男であった観世栄夫はこの時、観世流と他流の身体論の違いに大きな衝撃を受け[2]、結果的に芸養子という形で喜多流に転流して後藤得三の養子となり、後藤栄夫を名乗った。また栄夫の弟で八世観世銕之丞となった観世静夫も、この時期の他流との交流開始の衝撃の大きさを語っている[3]

この時期にこうした交流の場となった能舞台としては、多摩川能舞台(現在は銕仙会能楽研修所に移築)などが挙げられている。
能楽の技法
所作(カマエ・型・舞)

カマエとは能楽独特の立ち方のことで、膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢である。カマエは観阿弥世阿弥の時代には成立していなかったと考えられている。文献上でカマエに類似したものが現れるのは16世紀末に書かれた『八帖本花伝書』の巻五で、ここでは「胴作り」の名称で、男役の姿勢としてカマエに似たものが絵図付きで示されている[4]。カマエが男役だけでなく女役も含めて全ての能楽の役の姿勢の基本とされるようになったのは、江戸後期頃と考えられている。またハコビと併せ、こうした能楽の身体技法には日本の武術の身体技法の影響も大きいと考えられている[5]

能楽は型(演技等の様式、パターン)によって構成されている。所作、、囃子、全てに多様な型がある。しかしここでいう型は、いわゆるや所作の構成要素としての型である。型の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)ある。また能楽は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。能舞台は音がよく反響するように作られており、演者が足で舞台を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。

以下に能の型の例を示す。
シカケ(サシコミ)
すっと立ち、扇を持った右手をやや高く正面にだす。
ヒラキ
左足、右足、左足と三足(さんぞく)後退しながら、両腕を横に広げる。シカケとヒラキを連続させる型をシカケヒラキ(サシコミヒラキ)と呼ぶ。
左右(さゆう)
左手を掲げて左に一足ないし数足出た後、右手を掲げて右に一足ないし数足出る型。
サシ
右手の扇を横から上げて正面高くに掲げる型。
シオリ
目の前に手を差し出す。泣くことを示す[注 2]
拍子(ひょうし)
いずれかの足を上げ、舞台を踏む。
留メ拍子(とめびょうし)
一曲の終わりにはっきりと2回踏む。仕手が踏むこともワキが踏むこともある。

基本的には能も狂言も同じであるが、実世界に題材を求めた世俗的な科白劇でありリアルな表現の狂言に対し、超自然的なものを題材とした抽象的な表現を重視する能とではそれなりの違いがあり、これら種々の型の連続によって表現される所作のまとまりを能の舞と呼んでいる。

能の舞は型の連続であり、他の舞踊に見られる当て振りほとんど行われず無駄を削ぎ落とした極めてシンプルな軌跡を描き静的であるという印象が一般的だが、序破急と呼ばれる緩急があり、ゆっくりと動き出して、徐々にテンポを早くし、ぴたっと止まるように演じられる。稀に激しい曲ではアクロバテックな演技(飛び返りや仏倒れなど)もある。しかし止まっている場合でもじっと休んでいるわけでなく、いろいろな力がつりあったために静止しているだけにすぎず、身体に極度の緊張を強いることで、内面から湧き上がる迫力や気合を表出させようとする特色も持っている。

能では一曲のクライマックスでの表現として、謡が中心となった「クセ」などでの舞や、囃子のみで舞われる「舞事」が演じられる。「舞事」は以下のように分類される。

それぞれ太鼓の入った「太鼓物」や、太鼓の無い「大小物」がある。(後述の囃子の項目も参照)
呂中干(りょちゅうかん)の舞
定型の譜(呂中干の譜)を繰り返しながら、途中で段落や変化をつけた曲で、いろいろな役柄が舞う。中テンポの「中之舞」や、ゆっくりとした「序之舞」、急テンポの「急之舞」、「男舞」「早舞」「神舞」などがある。
楽(がく)
中国を舞台とした曲で神仙役の者が舞う。楽人役の仕手が舞うこともある(「鶴亀」「天鼓」など)。
神楽(かぐら)
脇能(仕手が神仏の役を演じる曲)で舞われる。神がかりした女性役の舞。太鼓物。

舞ほど長くないが舞台を一巡する所作で仕手の品位や勢威、内面心理を表現する囃子事もあり総称して「働事」と呼ばれている。
舞働(まいはたらき)
竜神などが勢威を示すための曲。太鼓物。
翔(かけり)
武人(修羅)や狂女が演じる曲。大小物。

狂言の舞踏も能と共有する技術が多く舞うというにふさわしいが、日常を描くことの多い狂言では当然日常的な所作や具体性を帯びた演技も多く、身体を上下に動かす所作もあり踊りに近い発想も見られる。


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