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島全景
所在地 日本(福岡県福岡市)
所在海域博多湾
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度37分15秒 東経130度18分12秒 / 北緯33.62083度 東経130.30333度 / 33.62083; 130.30333
面積3.95 km²
海岸線長12 km
最高標高195.0(三角点の標高) m
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}能古島能古島 (福岡県)福岡県の地図を表示能古島能古島 (日本)日本の地図を表示
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プロジェクト 地形
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能古島(のこのしま)は、福岡県福岡市西区に属する、博多湾の島である。現行の行政地名は、能古[1]。2024年2月末時点の人口は621人[2]。郵便番号は819-0012[3]。福岡市の中心部から、船で10分程度で来られるため、行楽地として利用する福岡市民も見られる。福岡県内ではアブラナ・サクラ・コスモス・スイセンの花の名所として知られ、これらが咲く時期などは島内が混雑する。
地理海ノ中道上空から撮影した写真。白く見える雲の真下付近、左奥の島が能古島である。他に志賀島(右)と玄界島(右奥)も見える。上空から見た能古島。
能古島は博多湾内に位置し、南北3.5キロメートル、東西2キロメートル、周囲12キロメートル、面積3.95平方キロメートル程の大きさである[4]。島内には山も見られ、三角点が置かれている場所の標高は、195.0メートルである。 島の西海岸には、3億年前の変斑れい岩 姪浜港から福岡市営渡船で10分と近いこともあり、離島振興法の指定地域ではなく、1970年に市街化調整区域の指定を受け今日に至っている。住民基本台帳上の人口は2021年8月末時点で350世帯、666人である[5]。 能古島内には中学校までしかない。福岡市立能古小学校と福岡市立能古中学校が同じ敷地内に校舎を接して建っている。福岡市で初の小中一貫校である。2018年現在は福岡市教育委員会から指定を受けて、福岡市全域から生徒が通学しており、1クラス15人から20人の少人数教育が行われている。 能古島の「能古」の文字には、歴史的な変遷が見られる。古くは「残」「能許」「能護」「能挙」「乃古」とも記載された。能古島が初めて登場する文献は『平安遺文』であり、731年(天平3年)頃の住吉神社の社領を記述した文中に「能護嶋」の名で登場した。また『筑前国続風土記』では「神宮皇后が帰朝の時、この島に住吉の神霊を残し留めて、異国の降伏を祈ったので残の島と言う」とある[6]。 神子柴系石器群の磨製石器の片刃の斧が見付かり[7]、島北端の也良でも磨製石器の斧が見付かった。 島の南東部の高台に位置する北浦遺跡や島南部の西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が発見された。 島南東部には箱式石棺墓が現存するものの、出土遺物が無いため陵墓の建造時期は不明である。島の南側には7世紀前後の古墳である早田古墳群があり、2基の横穴式石室が現存する。島の中央部にも鬼塚古墳と呼ばれる古墳が有ったとされるが、1941年の開墾で消滅したとされる[8][9]。 古代の郡制で、島は早良郡に組み込まれた。奈良時代には島北端の也良岬(やらみさき)に、防人が設置された[注釈 1]。 『万葉集』には 「沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ」 「沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻みて遭ぎ来と 聞え来ぬかも」 という短歌が収載されている。 また、遣新羅使が寄港地であった対岸の糸島半島の唐泊で出航を待つ心情を綴った 「韓亭 能許の浦 波立ちぬ日はあれども 家に恋ひぬ日はなし」 「風吹けば 沖つ白波 恐みと 能許の亭に 数多夜ぞ寝る」
地質
福岡市市街地との関係
歴史
上古
古代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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