能代役七夕
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能代役七夕(2018年)。能代市柳町にて「天空の不夜城」(2018年)

能代役七夕(のしろやくたなばた)は、毎年8月6日から7日にかけ、秋田県能代市で行われる祭りである。6日の午後から夜にかけて、巨大な鯱飾りを載せた城郭型の灯籠が市内を練り歩き、7日夜には、灯籠から取り外された鯱飾りを米代川に浮かべ、火をつけて送り流す「鯱流し」という行事が行われる。祭りは江戸時代に起源を持つ能代の住民自治の仕組みであった五町組(五丁組)制度と深い関わりがあり、これら町組を構成する各町が「若」と呼ばれる祭りの実行団体を組織して実施にあたる。また、年ごとに祭りの実施主体となる町組と、その中でも大丁と呼ばれる当番町が決められており、町組のローテーションは5年で一巡する。灯籠を出して祭りを実行するのはその年の当番となる町組のみであり、それ以外の4つの町組は観客の側であって運営には関わらない。また、各町組で灯籠の運行コースが異なるため、毎年灯籠の運行コースが変わり、参加する灯籠の台数も一定しないのが大きな特徴である。なお、能代市では8月の第1週を「七夕ウィーク」と称し、2日に「こども七夕」、3・4日に「天空の不夜城」という2つの祭りが、役七夕に先立って行われる[注釈 1]。本記事では、これら能代の七夕行事についても一括して記述する。
概要
役七夕の名称について

能代役七夕は、新暦8月1日から7日にかけて行われる能代の七夕行事の内、狭義には8月6日と7日に行われる行事を指すが[1]、それに先立つ8月1日の会所開きをもって役七夕の始まりとする認識も一般的である[2]。ところで「役七夕」という名称の由来は、参加する当事者全てに役職が割り当てられ、厳格な上下関係が守られているからとも伝わる[注釈 2]が、記録上「役七夕」の語は1897年(明治30年)地元の呉服商相沢金一郎の残した日記に初めて見られるものである。そこでは明治三十年 万町当番なり。役七夕は大町村上与兵エの作にて五丈なり。宮島の景なり。

とあることから、当初は当番町の出す灯籠それ自体を指して役七夕と称しており、一方で行事自体は江戸時代からの呼称である「ねぶ流し」「ねむり流し」「ねむた流し」「眠ながし」、あるいは単に「七夕」等と呼ばれていた[4]。この行事の当番町が出す大灯籠を、加勢丁(後述)の出す灯籠と区別して役七夕と呼称する用例は、1907年(明治40年)に能代に来遊した俳人河東碧梧桐の私信によっても裏付けられている[5]。このような用例は、実に昭和戦後の新聞記事まで連綿と見られるものだが[注釈 3]、元来旧暦の7月6日夜から翌朝にかけてのみ行われていた能代の七夕行事が7月1日から7日までに拡張されていく過程にあっても、原義である大型灯籠の「役七夕」運行は7月6日夜のみに限るという伝統が守られ続けたことで、7月6日から7日にかけて行われる行事をも特に役七夕と呼称する意識が形成されていったものと考えられている[7]。同時に、役七夕という語が、様々な応接儀礼を取り交わしながら実行されるこの行事の実態を説明するのに適切な表現であったともいえる[8]
ねぶながし(ねぶ流し)の名称について


東京・銀座まつりで行われた『能代ねぶながし』の出張運行

一方、先述の通り能代の七夕の諸行事は元来「ねぶ流し」等と呼ばれていたことから、1996年平成8年)に秋田県教育委員会によって県の選択無形民俗文化財に選択された際の名称は「能代のねぶ流し行事」となっている。また、昭和戦後に七夕の観光化を焦点とする七夕改革論が持ち上がる中で、能代観光協会が「ねぶながし会」を結成、1969年(昭和44年)から五町組の実施する役七夕とは別個に観光七夕を運行した。この観光協会主導の「能代ねぶながし」は、1972年(昭和47年)から3年間は東京・銀座まつりで出張運行するなど宣伝に努めたが、役七夕との行事の違いが判り辛く補完的な位置づけに留まり、以後再開と中断を繰り返す消長の歴史を辿っていくこととなる[9]。能代ねぶながしと役七夕は灯籠も同一の様式であり、能代火力発電所に併設された能代エナジアムパーク内にあるねぶながし館では、灯籠が常設展示されている。
灯籠について(概説)鯱飾りを倒して北羽新報本社前を通過する七夕灯籠(2018年・万町組)

役七夕の灯籠は城郭型と称するものだが、上部の鯱飾りが高さの半分近くを占める形態となっている。能代の七夕灯籠の形態は、天保期に地元の大工、宮腰屋嘉六によって制作された名古屋城天守を模した灯籠が好評を博したことから、幕末期に城郭型灯籠に統一されていったものと考えられている[10]。この元来の城郭型灯籠は、現在の「天空の不夜城」の形態に近いものであり[注釈 4]、鯱が巨大化した後代の姿とは異なる。役七夕の灯籠が鯱の大型化という変化を遂げたのはやはり昭和戦後であり、電話線の普及が背景にあった。電線に比べて電話線は低く張られたことから、灯籠全体の高さを抑え、鯱飾りを後ろに倒してクリアランスを確保する工夫がされるようになったのである[12]。城郭型の灯籠は、城という政治権威への憧憬と、反面幕末期において現実の政治権力が失墜していく過程に対しての能代の町人の結束という二つの背景から受容されていったと言えるものだが、戦後の鯱の巨大化とその土台となる城郭の縮小は、元来七夕灯籠が持っていたこうした物語性を遠ざけることとなった[13]。一方で、鯱の大型化は鯱流し行事に迫力をもたらし[12]、また鯱飾りを倒して電線の下を潜り抜ける姿も、この祭りの見どころとなっている[14]
「天空の不夜城」と「こども七夕」

能代七夕「天空の不夜城」は役七夕に先立つ8月3日、4日に行われる観光行事であり、2013年(平成25年)から開催が始まった、役七夕とは別個のイベントである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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