胡綜
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胡綜

偏将軍・左執法・都郷侯
出生光和6年(183年
豫州汝南郡固始県
死去赤烏6年(243年
?音Hu Zong
偉則
主君孫権
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胡 綜(こ そう)は、中国三国時代の政治家・武将。字は偉則。豫州汝南郡固始県の人。子は胡沖
生涯

幼くして父を亡くし、母に従い江東に移った。14歳になると会稽太守であった孫策から門下循行に採り立てられ、孫権とともに学問を学んだ。

孫策死去後、孫権により金曹従事に任ぜられ、黄祖討伐の武功により鄂県県令となった。孫権が車騎将軍になると、胡綜が将軍府の書部となり、是儀徐詳とともに国政の中枢を司った。

が呉を藩国とし、孫権が呉王に任ぜられると、是儀や徐詳らとともに亭侯に封ぜられた。劉備を攻めるため白帝城を攻撃することになった際、徴兵を行ない、右部督として左部督に任じられた徐詳とともに戦役に参加している。

黄武2年(223年)、賀斉とともに魏の晋宗を捕虜にした功績で建武中郎将に就任した。

黄龍元年(229年)、孫権が帝号を称し建業で正式に呉を建国すると、徐詳とともに侍中となり都郷侯として左右領軍を兼務した。黄龍2年(230年)、魏の隠蕃が呉に投降して、のちに隠蕃の謀反の計画が発覚した時の適切な評価と対応からさらに偏将軍を拝し、左執法を兼務して訴訟行政を担当している。なお、胡綜が偏将軍であった頃、朱桓に命を狙われたというエピソードがある[1]

公孫淵に対する使者派遣に関し、孫権と張昭が対立した際には両者の仲介を行なっている。

赤烏6年(243年)に死去。爵位は子の胡沖が継承している。
人物評価

胡綜は文章作成に優れており、呉を賞賛する辞賦を作ったほか、呉の行政文書や外交文書の作成を担当していた。

呉では、長官職にある者は両親の喪のために休職することを禁じられていたが、実際には禁令は守られていなかった。禁令について朝臣に諮った際には、胡綜は禁令を破った者を死刑にすべきであり、一人を処罰すれば見せしめになると上言している。孫権が胡綜の意見に従った結果、呉ではこの禁令を破る者はいなくなったという[2]
参考文献

陳寿裴松之注『正史 三国志』、井波律子今鷹真小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。

脚注[脚注の使い方]^三国志』呉志 朱桓伝
^ 『三国志』呉志 胡綜伝










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵

田疇

王修

?原

管寧

王烈

張?(中国語版)

胡昭


巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝

崔?

毛?

徐奕

何?

??



司馬芝

司馬岐(中国語版)


巻13 鍾?華?王朗伝

鍾?

鍾毓


華?

王朗

王粛

孫叔然


巻14 程郭董劉?劉伝

程c

程暁


郭嘉

董昭

劉曄

?済

劉放

孫資


巻15 劉司馬梁張温賈伝

劉馥

司馬朗

梁習

張既

温恢


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