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胡 漢民
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生:1879年12月9日
(光緒5年10月26日)
死去:1936年(民国25年)5月12日
中華民国 広東省広州市
出身地: 清 広東省広州府番禺県
(現:広州市番禺区)
職業:政治家
各種表記
繁体字:胡 漢民
簡体字:胡 ?民
?音:Hu Hanmin
ラテン字:Hu Han-min
注音二式
胡 漢民(こ かんみん)は清末民初の政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党の長老。?介石と権力闘争を繰り広げたことでも知られる。旧名は衍鴻、字は展堂。 地方官吏の家庭に生まれる。21歳で挙人となった。1902年(光緒28年)に、呉敬恒(呉稚暉)・鈕永建らと日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。しかし、呉が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。帰国後は、ジャーナリスト・教師として活動する。1904年(光緒30年)に再び日本へ留学し、法政大学法政速成科で学んだ。 翌1905年(光緒31年)秋、孫文が中国革命同盟会(まもなく中国同盟会と改名)を成立させると、胡漢民は廖仲トと共にこれに加入している。11月に創刊された同盟会機関誌『民報』では、胡は論客として保皇派との論戦に活躍した。1907年(光緒33年)春、孫が日本から国外追放されると、胡もこれに同行し、両広起義に加担している。起義失敗後、胡は南洋で資金収集に活動し、1909年(宣統元年)10月、香港で成立した同盟会南方支部で支部長に任ぜられた。 1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発する。胡漢民は広東の革命派蜂起を指導して、11月9日に広東の独立を宣布し、都督に推戴された。翌1912年(民国元年)1月、南京臨時政府が成立すると、臨時大総統孫文を補佐する大総統秘書長に任ぜられる。袁世凱が孫から譲られて臨時大総統となった後の4月、胡は広東に戻り都督専任となった。8月、宋教仁が同盟会を基に国民党を結成すると、胡は広東支部長となる。 1913年(民国2年)3月、宋教仁が袁世凱の刺客に暗殺されると、胡漢民は反発の姿勢をとったが、6月には広東都督から罷免されてしまう(後任は陳炯明)。そのため、胡は第二革命(二次革命)に大きな関与をなすこともできず、これに失敗した孫文や廖仲トとともに日本へ亡命した。翌1914年(民国3年)7月、東京で中華革命党が成立すると、胡は同党政治部長に任ぜられている。1916年(民国5年)4月、密かに帰国し、陳其美らの反袁活動に与した。 1917年(民国6年)9月、孫文が護法運動を開始し、広州で護法軍政府(大元帥府)が成立すると、胡漢民は交通部長に任命された。しかし翌年5月に護法軍政府が7総裁の集団指導制に改組され、岑春?が主席総裁として孫から実権を奪う。孫や胡は怒って上海に去った。1919年(民国8年)8月、胡は孫文の指示で雑誌『建設』を創刊し、五四運動や新文化運動を支持する文章を発表している。1921年(民国10年)5月、孫が非常大総統となると、胡は総参議に任ぜられた。 1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回党大会にて、胡漢民は中央執行委員会委員に選出された。9月、孫文が北伐を開始すると、胡は広東の留守をつとめて大元帥の職権を代行し、広東省長を兼ねている。
事績
清末の活動
民国初期の活動
中国国民党成立後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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