背後の一突き
[Wikipedia|▼Menu]
1920年総選挙時の国家人民党によるポスター。東方の敵(ポーランド)と相対するチュートン騎士(ドイツ)を背後から社会主義者が妨害している。1919年に発行されたオーストリアポストカード。ナイフを持ったユダヤ人が戦場の兵士を背後から刺そうとしている。

背後の一突き(はいごのひとつき、:  Dolchstoslegende[ヘルプ/ファイル])とは、第一次世界大戦でのドイツ帝国敗戦は、戦場でのドイツ軍の敗北によってではなく、銃後(ドイツ本国内)におけるドイツ社会民主党(SPD)を筆頭とする社会主義勢力や、ユダヤ人による戦争妨害・裏切りによってもたらされた説明である。軍部など帝政支配層の責任を免除し、ドイツ革命ヴァイマル共和国を非難するために保守派で盛んに用いられた[1]

「背後からの一突き」、あるいは直訳して「匕首伝説(あいくちでんせつ)」とも呼ばれる[2][1]
歴史共和国宣言を行ったドイツ社民党の政治家フィリップ・シャイデマンと休戦協定を締結した中央党の政治家マティアス・エルツベルガーが背後からドイツ兵を襲う姿を描いた1924年の風刺画

保守派・右派は第一次世界大戦開戦当初より「勝利の平和」を唱えて積極的に戦争推進してきたが、大戦後期ドイツの戦況が悪化してくると、軍部やドイツ祖国党(大戦中に200万人のメンバーを擁した院外の戦争翼賛大衆組織)を中心に戦争協力しない者に戦況悪化の責任を押し付ける背後の一突き説の萌芽となる言説を唱えるようになった。1918年9月に軍部の休戦申し出により休戦・講和のための新政府を作らねばならなくなった時、軍の実質的指導者で政府の実権も掌握していたエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将が「我々をここまで追い込んだ勢力」に新政府を委ね、講和を結ばせて「彼らがまいた種を刈らせる」ことを主張したのはそれを象徴する[1]

フリードリヒ・マイネッケはその回想録の中でドイツ革命が始まる前の1918年10月にドイツ祖国党系の新聞において、ドイツの苦戦の原因を国内の弱気な人々と敗北主義者(暗に社会民主党や中央党左派の人々からなる「自由と祖国のための国民同盟」など、戦争遂行の方針を批判した人々を指す)のせいだとする批判論が展開されていたと証言している[3]

敗戦後も前線兵士たちへの配慮から「軍は最善を尽くした。責任は全て銃後にある」とする考え方は国民の間に広く共感された。ドイツ革命の中で権力の座に就いた臨時政府(ドイツ語版、英語版)議長フリードリヒ・エーベルト(後のドイツ大統領)も1918年12月の帰還兵たちへの演説の中で「いかなる敵にも諸君らは破れなかった」と彼らの勇戦を称えた。図らずもこのエーベルトの演説も「背後の一突き」説の形成を助けることになった[1]

後ろから匕首で刺されたという表現は、1918年12月半ばにスイスチューリッヒの新聞『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング』が記者のコメントとして「ドイツ軍は文民によって背後から匕首で刺された」と書いたことに始まる。国外中立者からの発言として背後の一突き説の信憑性を示す物として大いに利用された[4]

1919年6月のヴェルサイユ条約調印後、ドイツの国民議会でドイツの敗北の原因を調査する調査委員会が開かれた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef