肥前電気鉄道
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肥前電気鉄道株式会社種類株式会社
本社所在地 日本
佐賀県藤津郡嬉野町下宿
設立1911年(明治44年)2月28日
業種鉄道
事業内容電気鉄道事業電気供給事業
代表者長谷川公平(社長)
資本金100万円(全額払込済み)
株式数20万株(額面50円)
収入29万4445円
支出21万8015円
純利益7万6430円
配当率年率4.8%
決算期4月末・10月末(年2回)
上表は1931年2月時点ないし1930年10月期決算による[1][2]

肥前電気鉄道
路線総延長9.8 km
軌間1067 mm
電圧600 V 架空電車線方式直流
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例


0.0嬉野駅


0.9下宿駅


2.1今寺駅


3.0式浪駅


4.6大草野駅


6.2橋山駅


7.0美野駅


8.3宮ノ元駅




9.8塩田駅


祐徳軌道


武雄方面

肥前電気鉄道(ひぜんでんきてつどう)は、かつて佐賀県藤津郡塩田町および嬉野町(現在はいずれも嬉野市)内において運行されていた軌道鉄道路線路面電車)およびその運営事業者(肥前電気鉄道株式会社)である。

会社は1911年(明治44年)に設立。路線は1915年(大正4年)に開業し、1931年(昭和6年)に全線廃止となった。その後会社は肥前電気株式会社という電力会社として存続するが、1937年(昭和12年)に東邦電力へと事業を譲渡して消滅した。
歴史

九州鉄道(初代)が、現在の九州旅客鉄道(JR九州)佐世保線大村線長崎本線にあたる山口駅(現・江北駅) - 諫早駅間ルートを建設する際、温泉宿に泊まるものがいなくなって街が寂れることを懸念した嬉野町は、当初同町中心部に路線が通される予定であったものを一蹴してしまい、後になって鉄道の至便性を見て「痛哭の思い」「百年の悔い」と大いに悔いたといわれる[3]鉄道忌避伝説の一種である。

真偽はともかく嬉野では、高橋駅 - 武雄駅前駅 - 塩田駅 - 祐徳門前駅間の鉄道路線を開業させていた祐徳軌道1904年(明治37年)開業、1931年(昭和6年)廃止)に接続させる形で、塩田 - 嬉野間に電気鉄道線を建設することにした。こうして1915年(大正4年)12月に開業したのが肥前電気鉄道である。計画では嬉野から先、長崎本線(当時)彼杵駅までの建設も予定されており、工事も実施されたが、資金難により未完成のまま中止された。また嬉野と長崎本線武雄駅(現・武雄温泉駅)を結ぶ路線の免許も取得していたが、着工に至らず免許取消しとなった。その後国鉄バス1942年(昭和17年)に武雄 - 彼杵間を嬉野線として開業させている。

鉄道事業のほか、自社で発電所を保有し、沿線の藤津郡と近隣の杵島郡および長崎県東彼杵郡の一部地域において電気供給事業も行っていた。しかし会社の経営は思わしくなく、1920年代には兼業の電気事業の収益により業績を維持していたが、昭和恐慌により電力需要が下がり業績が落ち込んでいった。加えてバスの発達により輸送人員が減少し、さらに祐徳軌道の廃止が決定打となり1931年(昭和6年)に鉄道路線は全廃された。廃線前年の1930年(昭和5年)、大手電力会社東邦電力が当時の社長から株式を買収[4]。その後1932年(昭和7年)5月に「肥前電気株式会社」へと改称して電力会社として一旦存続したが、事業は1937年(昭和12年)10月31日付で東邦電力へと渡った[4]

なお、現在祐徳軌道の事実上の後身である祐徳自動車がかつての肥前電気鉄道と一部の経由地や停留所の名称が一致する路線バスを嬉野から塩田を経由して鹿島の祐徳稲荷神社まで運行している。
年表

1908年(明治41年)11月30日 : 長崎県東彼杵郡彼杵村(現・東彼杵町)蔵本郷から嬉野・塩田・北方駅を経由し、佐賀県小城郡北多久村(現・多久市)莇原(多久駅付近)に至る26マイル75チェーン (43.3km) の軌道路線(軌道法準拠)の特許を嬉野電車軌道の名で出願。

1909年(明治42年)7月1日 : 嬉野電車軌道が上記特許を取得[5]

1911年(明治44年)2月28日 : 肥前電気軌道株式会社として会社設立。社長は天狗煙草の岩谷松平[6]

1912年(明治45年)

6月12日 : 塩田から杵島郡武雄町(現・武雄市)に至る路線の特許を取得。

7月23日 : 電気供給事業経営許可[7]


1913年(大正2年)

4月5日 : 塩田 - 武雄間を軌道から軽便鉄道軽便鉄道法準拠)に変更、特許を返納し免許を取得[8]

6月14日 : 塩田 - 北多久間の起業廃止、特許返納。

8月1日 : 電気供給事業開業[7]


1915年(大正4年)

11月25日 : 社名を肥前電気鉄道株式会社に変更。

12月21日 : 塩田 - 嬉野間開業。


1917年(大正6年)4月18日 : 新彼杵(彼杵駅に隣接) - 塩田間の免許を取得(軽便鉄道法準拠)[9]

1918年(大正7年)

1月28日 : 塩田 - 武雄間の免許失効[10]

2月1日 : 塩田 - 嬉野間を鉄道路線に転換(手続き上は塩田 - 嬉野間の軌道路線の廃止および鉄道路線の開業)[11]


1919年(大正8年)

1月22日 : 南大草野駅を大草野駅に改称[12]

3月1日 : 橋山駅を設置[13]


1927年(昭和2年)6月14日 : 新彼杵 - 嬉野間の起業廃止、免許返納[14]

1931年(昭和6年)12月25日 : 塩田 - 嬉野間全線廃止[15]


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