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出典検索?: "肝付氏"
肝付氏
対い鶴喰若松
三つ雁金
本姓伴宿禰
家祖肝付兼俊
種別武家
士族
出身地大隅国肝属郡[1]
主な根拠地大隅国肝属郡
著名な人物肝付兼続
小松清廉
肝付兼正
支流、分家北原氏(武家)
薬丸氏(武家)
安楽氏(武家)
梅北氏(武家)
頴娃氏(武家)
荻原氏(武家)
和泉氏(武家)
朝隈氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族
肝付氏(きもつきし、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}旧字体: 肝属氏[要検証 – ノート])は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた。 南北朝時代には南朝方に属し、北朝方と戦った。南北朝の争乱が一段落した後は島津氏に服属していたが、戦国時代に入ると領土問題から島津氏と対立し、日向の伊東氏と手を結んで島津氏と争う。 第16代当主肝付兼続は名将で、竹原山の戦い
経歴(伴善男の玄孫、善男 → 中庸 → 仲兼 → 兼遠 → 兼行)が薩摩掾に任命されて下向した。兼行の子に行貞がおり、その子兼貞(妻は島津荘開墾者・大宰大監平季基の娘、又は季基の子・兼輔の娘)は大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊の代に郡名を取って肝付(旧字体: 肝属)を名乗った。
動向
第18代当主肝付兼亮は、父の復讐を果たさんと島津氏に反抗したが、天正元年(1573年)、それをかえって親島津氏の家臣たちと義母・御南(島津貴久の姉)に反対されて、当主の座を追われてしまうこととなる。
第19代当主に擁立された肝付兼護は、天正2年(1574年)に島津氏に臣従して、家名こそ存続することはできたが、天正8年12月(1581年1月)には領地も没収されて、島津氏の一家臣となる。これにより、大名としての肝付氏は滅亡した。
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで兼護が討死。長男の兼幸も、琉球国王尚寧王を江戸に連行した島津忠恒(家久)に同行した際、帰国途中の筑前国愛島で暴風雨に遭い溺死した(享年19)。子孫は、島津氏一族の新納家からの養子を迎え、薩摩藩士として存続した。
庶流は早くから島津氏に仕えて重用され、江戸期には喜入領主、家格は一所持(5500石)として存続した。同家より小松清廉(小松帯刀)が出る。その他の庶流も薩摩藩士、佐土原藩士として多くが残っている。声優の肝付兼太(本名:肝付兼正)は肝付氏庶流の末裔である[3]。
肝付氏歴代当主
肝付兼俊
肝付兼経
肝付兼益
肝付兼員
肝付兼石
肝付兼藤
肝付兼尚
肝付兼重
肝付秋兼
肝付兼氏
肝付兼元
肝付兼忠
肝付兼連
肝付兼久
肝付兼興
肝付兼続
肝付良兼
肝付兼亮
肝付兼護
肝付兼幸
肝付兼康(新納忠秀の長男)
肝付兼親(兼康の子)
肝付年兼(兼親の子)
肝付経験(年兼の子)
肝付治兼(経験の子)
肝付兼群(比志島範幸の次男。比志島範幸は側用人米良重長の嫡子にして、薩摩藩家老比志島義頼の後嗣として比志島氏の家督を継承。[要出典])
肝付兼命(九良賀野生母の次男。九良賀野氏は永吉島津家第6代島津久貫の分家。[要出典])
肝付兼明(検見崎五右衛門の子。検見崎氏は初代当主である肝付兼俊の子兼友を祖とする。検見崎氏第20代兼明は、文政13年(1830年)検見崎氏の家族・資産をもって肝付本家を相続。[要出典])
肝付兼施(兼明の子)
肝付兼寛(兼施の子)
肝付兼亮(兼寛の子)
肝付兼冬(兼亮の子)
肝付兼遠(兼冬の子)
肝付氏庶流
肝付兼光
肝付兼固
肝付兼演
肝付兼盛
肝付兼行 - 第5代大阪市長
肝付兼善
肝付兼太(本名は兼正) - 声優
肝付兼美 - 音楽家、マンドリン奏者
系譜肝付氏系譜
太字は当主。実線は実子、点線は養子。諸説あり。
伴兼行
行貞
兼貞
[肝付氏]
肝付兼俊1萩原氏
萩原兼任安楽氏