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肉筆浮世絵(にくひつうきよえ)とは、江戸時代に成立した浮世絵のジャンルのひとつ。通常、一般的に錦絵と呼ばれる浮世絵版画と区別して、浮世絵師が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語である。屏風絵、絵巻、画帖、掛物絵、扇絵、絵馬に分けられる。 「肉筆(画)」とは、いわゆる絵画(Painting)を指す言葉である。絵であるからには筆で描くのは当然であるが、筆の頭に「肉」をつけて「肉筆画」と呼ぶ[要出典]。「浮世絵」とは、「今現在の風俗画」と言う意味で、版画(Print)や絵画も含んだ用語であった。しかし後世、欧米での浮世絵版画の高評価が逆輸入されると、浮世絵といえば版画を指すのが一般化してしまい[要出典]、浮世絵版画との区別をより明確にするために肉筆浮世絵という語が必要となった。よって肉筆浮世絵は、決して浮世絵版画の下絵や原画では無く、また版画の上に筆で彩色した絵でも無い。 もともと浮世絵師が描く絵画作品に「肉筆」の語を当てるのは、江戸時代当時から行われていた[要出典]。他方、江戸時代当時まだ「版画」という語ではなく、肉筆の対義語としては「錦絵」や「紅絵」などの用語が用いられた。ところが、明治以降美術という概念が日本にもたらされ、既存の用語が西洋の概念を反映した別の述語に置き換わっていく中で、浮世絵の中でも上位の重要用語である[信頼性要検証]「肉筆」という用語は、変わらず使われ続けた。こうした事情や、浮世絵といえば版画のことを指すという刷り込みから、現在ではやや馴染みが薄い言葉であるが、浮世絵版画よりも歴史は古く、浮世絵を語る上で欠かすことの出来ないジャンルと言える。 古代より、月次絵や名所絵、絵巻物などの添景として現実の風俗は描かれてきた。しかし、現実の中で生きる人間に焦点を絞って描かれ始めるのは、16世紀初めの洛中洛外図あたりからである。時代が下るにつれて、洛中洛外図のモチーフの中から、個々の遊びに興じる人々をクローズアップする作品が登場してくる。狩野秀頼「高雄観楓図屏風」や、狩野長信「花下遊楽図屏風」が代表的な作品である。いずれも狩野派正系の絵師であり、無落款が多い近世初期風俗画でも狩野派の絵師の関与が想定される。 一般にこうした近世初期風俗画の成立が、浮世絵の誕生の契機となったとされ、特に初期肉筆浮世絵と呼ぶこともある。その成立には岩佐又兵衛が大きく関与したと考えられる[要出典]。制作地は京阪で、障壁画が多い。代表的作品として「彦根屏風」や「相応寺屏風」、「本多平八郎姿絵屏風」などが挙げられる。(1615年(元和元年)頃 - 1680年(延宝8年)頃)にかけて江戸に移行したものを肉筆浮世絵と呼び、初期肉筆浮世絵とは別の概念とされる。この肉筆浮世絵は、形式上、屏風絵、絵巻、画帖[要出典]、掛物絵(掛幅・掛軸)、扇絵、絵馬[要出典]の6種類に分類される。床の間での鑑賞という制約のもとに描かれた掛幅が圧倒的に多い[要出典]。特に寛文年間を中心に流行した、一人立ちの遊女や美人を描く「寛文美人図」は、後の浮世絵美人画にも直接影響を与えていく。 版画が浮世絵の主要な表現手段となった菱川師宣以降においても、大半の浮世絵師は版画を創作する一方で肉筆画をも制作した[要出典]。寛文12年(1672年)から元禄2年(1689年)に描かれた、菱川師宣の「北楼及び演劇図巻」(東京国立博物館所蔵)が肉筆浮世絵の初期における代表例である。浮世絵師の中には、宝永7年(1710年)から正徳4年(1714年)頃に活躍した懐月堂安度やその門人たち、宮川長春のように、版画に興味を示さず生涯肉筆画を専門として真価を発揮した絵師も存在した。特に宮川長春は肉筆画の優位を信じ、門下の宮川長亀、宮川一笑、宮川春水などとともに肉筆画専門の一派を形成している。 多色刷りが一般化し、版画の重要性が増しても、浮世絵師たちは肉筆画を描き続けた。
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