聖餐論
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このページのノートに、このページに関する議論があります。(2021年12月)
議論の要約:記事の方向性について

聖餐論(せいさんろん)とは、キリスト教において、聖餐聖体)のサクラメント秘跡機密礼典・聖奠)に関する教義上の捉え方に対する神学的な議論のことである。ここでは、キリスト教諸教派における聖餐論の相違について述べる。
初代教会

ディダケー第9章には以下の記述がある[1]。1聖餐については、次のように感謝しなさい。2最初に杯について。「わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた、あなたの僕ダビデの聖なるぶどうの木について、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠に(ありますように)」。3パンについて。「わたしたちの父よ。あなたがあなたの僕イエスを通してわたしたちに明らかにされた生命と知識について、あなたに感謝します。あなたに栄光が永遠に(ありますように)」。4このパンが山々の上にまき散らされていたのが集められて一つとなるように、あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように。栄光と力とはイエス・キリストによって永遠にあなたのものだからです」。5主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、「聖なるものを犬に与えるな」と述べておられるからである(マタイ7・6)。 ? 「十二使徒の教訓」九 荒井献 訳 『使徒教父文書』 34ページ[2]
カトリック教会と正教会との相違

カトリック教会正教会との聖餐(聖体秘跡)論の捉え方はほぼ同じである。例えば、聖体の秘跡において、パンとぶどう酒の実体がキリストの肉と血の実体(正教会でいう実体はギリシャ語ではヒュポケイメノン/イポキメノン(?ποκε?μενον:基体とも訳される))に変化[3]し、ゴルゴダの犠牲が再現されるという概念は、古代教父時代から一致している。特に聖体秘跡の生贄の概念は、第1ニカイア公会議においても既に認められていた。

しかしながら、カトリック教会のラテン的な文化的背景と正教会のヘレニズム的な文化的背景との相違が若干みられる。例えば、カトリック教会では、パンまたはぶどう酒のどちらかの形態(外観)のみ(単形態)の拝領で、聖体秘跡として有効であるのに対し、正教会はパンの使用とパンとぶどう酒の両方の(両形態)拝領でなければ機密(秘跡)として有効にはならない。また使用するパンについて、カトリック教会では無発酵パン(酵母なし)を使用を義務とし、正教会では発酵パンの使用を義務としている。ただし、カトリック教会では現教会法において無発酵パンの使用を義務にしているが、教理または秘跡として義務としているわけではない。カトリック教会でカノンとしている東西合同のフィレンツェ公会議では、東方または西方教会それぞれの教会法に応じて発酵パンおよび無発酵パンの使用を認める決議がされている[4]

カトリックでは、聖体拝領のパンは「不死の薬」であり、「教会は、洗礼を受けていない人に聖体拝領をさせることはできないし、間違ったことを教える人や、道徳に反する生活を送る人に聖体拝領を与えることもできない」とし、「カトリック信者が聖体拝領を受けることができるのは、有効に叙階された奉仕者からだけである」と規定している[5]

正教会においては、聖体機密と呼び、機密に与って神の恩寵を受けるのは正教会洗礼を受けた正教徒に許されるが、機密を執行する事が出来るのは主教司祭に限られる[6]
正教会の聖餐理解詳細は「聖体機密」を参照

正教会においてもカトリック教会と同様に、聖体礼儀の中で成聖されたパンとぶどう酒の中に、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世以降のギリシャ語教会スラヴ語読み)が実存すると理解する。しかしながら、カトリック神学のような聖変化によってパンとぶどう酒が聖体・聖血に『完全に』実体変化をしたと理解するのではなく、真のパンとぶどう酒であって、なおかつ真の聖体・尊血(聖血)であると考える。

もっとも、正教会の聖餐論を東西教会の分裂以降に発達したスコラ神学によるカトリック教会の聖餐論(スコラ神学の集大成者であるアキノの聖フォマ<トマス・アクィナス>による解釈)と比較したり、また更に後の時代になってカトリック教会への抗議(プロテスト)から始まったプロテスタントの神学を用いて解釈しようとしたりすること自体にそもそもの無理がある。カトリックやプロテスタント諸派の(それぞれの)聖餐論的理解に対して正教会の見解を問われれば聖変化を認めるという立場をとるが、それは『機密制定の晩餐』の席上でイイスス・ハリストスがパンとぶどう酒を手にとって、それぞれ自分自身の体であり血であると宣言したから、パンであってハリストスの体であり、ぶどう酒であってハリストスの血なのである。また、どの時点で聖変化が起こるのかについても、その問い自体がスコラ神学的発想によるものなので、正教会にとってはそのような問いかけ自体がナンセンスとも言えるのである。

強いていえば、主日の朝、信者が家を出るとき、その日の聖体礼儀に供される聖パンを携えたときから始まるとも考え得るし、聖パンに供されるためにパン生地が練られるときからとも、あるいは小麦などパンのそれぞれの原料がこの世に存在し始めたときからとも言える。そして、その成聖の過程は聖体礼儀の中において、捧げられたパンとぶどう酒を司祭が記憶(アナムネーシス)し、「なんじの聖神゜(せいしん:聖霊)をもって、これを変化せよ。」という聖神゜の降臨を願う祈り(エピクレーシス)を唱えることにより聖神゜が降臨して完成されると考えられる(ちなみにカトリック教会の神学では、エピクレーシスで聖霊が降臨して聖変化が始まり、聖体を制定する典礼文(制定句)が唱えられ、アナムネーシスされて完成すると考える)。

しかしながら、『使徒の教会』の継承を自認する正教会の信者にとって信仰上の大切なことは、イエスの言葉と教会の伝統に従ってイエスの制定された領聖(聖体拝領)等の各機密に与ることであり、神学的解釈や理解よりも伝統の中に息づき生き続けるいのちを受け、且つ継承していくことに正教信仰の真髄があるとも言える。
カトリック教会とプロテスタント教会との相違

カトリック教会と正教会は、パンとぶどう酒の実体がキリストの肉と血の実体に変化(聖変化)することを認めている。特にカトリック教会はトリエント公会議でパンとぶどう酒の外観(形態)のもとに、キリストの人性である肉と血と霊魂、および神性が現存すると説明した。

これに対しルター派シュマルカルデン条項)は共在説改革派教会においてフルドリッヒ・ツヴィングリ象徴説ジャン・カルヴァンは臨在説(『キリスト教綱要』、ウェストミンスター教会会議)を唱え、カトリックの実体変化説に反対した。また、ゴルゴタの犠牲の再現、つまり聖餐の生贄に関する概念も、プロテスタント諸教派から否定されている。
プロテスタント教会の諸教派における相違

ルター派共在説改革派のうちツヴィングリ派象徴説カルヴァン派は臨在説(聖餐のパンとぶどう酒自体は、パンそのもの、ぶどう酒そのものであり、何物にも変わることはないが、キリストの霊的な臨在がパンとぶどう酒に伴うものとする)をそれぞれ支持し、互いに教理論争が続いた。ただし、これらの比較的教条主義的な教派は聖餐を礼典として認めており、福音同盟の会議において地上における礼典の永続性が確認されたが、救世軍のように礼典としての意味をも認めない教派も存在する。ただし、多くのプロテスタントにおいては、信仰を同じくする者・すなわちあらゆる正統的キリスト教の教派の陪餐を認めている。


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