聖職貴族
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聖職貴族(せいしょくきぞく、: The Lords Spiritual)は、イギリスにおいて貴族院議員であるイングランド国教会(国教会)の26人の主教。貴族の右側に座る主教は含まれない。長老派教会スコットランド国教会ウェールズ北アイルランド聖公会はもはや国教会ではなく、代表もしていない。貴族院議員である世俗貴族とは異なる。
階級と称号

イングランド国教会は42の教区で構成され、教区主教(英語版)により導かれている。カンタベリー大主教ヨーク大主教は、それぞれ全イングランドの大主教、イングランドの大主教として、対応する教会管区を監督している。現職の5人の「主教座」、カンタベリー大主教ヨーク大主教、ロンドン主教(英語版)、ダラム主教(英語版)、ウィンチェスター主教(英語版)は常にロード・オブ・パーラメントである。残りの35人の主教のうち、最上位の21人が聖職貴族となるが、この規則の通常の運用は2015年に停止され(教会が女性を主教として任命し始めるという決定に続いて)、代わりに 2025年まで主教に任命された全ての女性が、年功序列に関わらず、貴族院での女性主教の代表の釣り合いをとるために、自動的に聖職貴族として任命されることになる[1]。それ以外では、教区主教としての在職期間に応じて決められる(すなわち、他の主教座への移転で失われることはない)[2][3]。ソドー・アンド・マン主教(英語版)やヨーロッパ主教(英語版)は、教会管区がイングランドや連合王国の外にあるために、年功序列に関わらず、聖職貴族にはならない(前者は、職権でマン島の立法評議会(英語版)の議員であるが)。

理論的には、大主教と主教を選出する権限は、教区大聖堂のcollege of canonsに属する。しかし、実際には大主教と主教の任命(英語版)は選挙の前に行われる。首相がCrown Nominations Commissionにより提案された一連の候補者の中から選ぶ。その後、君主はcollege of canonsに、指名された者を司教または大主教として選出するように指示する。

聖職貴族の中から一人がカンタベリー大主教によりベンチのコンベナーとして任命される。コンベナーは、貴族院における主教の業務を調整する。バーミンガム主教(英語版)のデイビット・アーカート(英語版)が、2015年5月18日に現在のコンベナーに任命された[4]
貴族

貴族の初期の頃ですら、主教の立場は明確ではなかった。リチャード2世の治世中、カンタベリー大司教は、「イングランド王国の慣習と権利により、さしあたり、カンタベリー大司教と属主教、信者、主教、修道院長、小修道院長、その他のいかなる高位聖職者に属する。王国貴族として、いかなる国王の議会に出席すること」を宣言した。しかし、この主張は議会に同意も反対もされなかった。

最初、聖職貴族は完全に世俗権力の管轄外にあると宣言した。貴族院での裁判に問題は生じなかった。教皇の権威が強大になると、高位聖職者に対する管轄権の欠如を認めるほかなかった。しかし、後に、イングランドにおける教皇の権威が減少すると、聖職貴族は世俗的な法廷の権威の下に置かれた。共通の法廷の管轄がヘンリー8世の時代に明確に確立された。ヘンリー8世は、自らが教皇の代わりにイングランドの教会の長であると宣言して、イングランドにおけるローマ・カトリック教会の憲法上の権力を終わらせた。

貴族院で世俗貴族として裁判を受けることができなかったにもかかわらず、聖職貴族が実際に貴族かどうか不明のままだった。1688年に、一般の陪審員による7人の主教(英語版)、すなわちウィリアム・サンクロフト(英語版)(カンタベリー大主教)、en:Sir Jonathan Trelawny, 3rd Baronet(ウィンチェスター主教)、トマス・ケン(バス・ウェルズ主教)、ジョン・レイク(英語版)(チチェスター主教)、ウィリアム・ロイド(英語版)(ウスター主教)、フランシス・ターナー(英語版)(イーリー主教)、トーマス・ホワイト(英語版)(ピーターバラ主教)の裁判で問題が起きた。告発は主教の請願が煽動誹謗になるというもので、主教はいかなる時にも君主に対する請願権があると主張したが、当局は、そのような権利は議会の会期中にのみ許されていると非難した(請願書を提出した時は、そうでなかった)。もし主教が貴族ではなくロード・オブ・パーラメントでしかなかった場合、議会が解散すれば請願権が無効になっていた。しかし、貴族は会期中がどうかに関わらず、君主の枢密顧問官のままであった。ゆえに主教が実際に貴族であったならば、自由に請願書を提出できることになっていた。実際に請願書が提出されたことに疑いの余地はなかったので、法廷は主教に対して無罪判決を下した。これは、主教が枢密顧問官であることが当然だったことを表している。

しかし、Standing Orders of the House of Lordsによれば、「召喚状が発行された主教は貴族ではなくロード・オブ・パーラメントである」とされている。
人数

イングランド議会の初期では、修道院長を含む聖職貴族が世俗貴族に数で勝っていた。しかし、1536年から1540年までの間に、ヘンリー8世が修道院を解散させ、修道院長の議席がなくなった。初めてであり、その後、聖職貴族は貴族院で少数派になった[5]

21の古い教区(ウェールズの4つを含む)に加えて、ヘンリー8世は新たに6つの教区を創設し、そのうち5つが残った(イングランド国教会の主教区の歴史的発展(英語版))。イングランド国教会の主教は1642年に除外されたが、イングランド王政復古後に議席を回復した。それ以降、19世紀初期まで新たに主教座が創設されることはなかったために、聖職貴族の人数は26人のままだった。

スコットランド国教会の主教、修道院長、小修道院長は伝統的にスコットランド議会(英語版)に議席を持っていた。スコットランド宗教改革(英語版)の後、1560年に修道院が聖職者ではない者に買収されたために、「修道院長」、「小修道院長」として議席を持っていた者は、この時から全て聖職者ではない者だった。宗教的な遵奉に関わらず、スコットランド国教会の主教は議席を持ち続けた。ローマ・カトリックの聖職者は1567年に除外されたが、監督制における監督は、1638年に除外されるまで議席を持ち続けた。スコットランド王政復古(英語版)の後に議席を回復したが、最後の教区主教が廃止され、長老派教会としてスコットランド国教会が恒久的に設立されて、1689年に再び除外された。もはやスコットランド国教会の主教(英語版)は存在せず、ウェストミンスターの貴族院に聖職者を派遣したことは一度もない。

アイルランド聖公会の主教と大主教は、アイルランドの貴族院に聖職貴族として議席を持っていた。


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