聖職者民事基本法
[Wikipedia|▼Menu]
議会の命令で聖職者に宣誓を強制しようとする様子を描いた風刺画(1791年)

聖職者民事基本法[1][注釈 1](せいしょくしゃみんじきほんほう、: Constitution civile du clerge)は、フランス革命期の1790年7月12日憲法制定議会で議決され[3]、同年8月24日に国王ルイ16世の裁可により成立したフランス法律である[4]。日本語では、聖職者基本法[5]、聖職者俗事基本法[6]、聖職者公民憲章[7]、僧侶民事基本法[8]、僧侶基本法[9]、僧侶市民憲法[10]、僧侶にかんする民事基本法[11]とも訳されている。
概要

この法律の内容は、フランス国内[注釈 2]カトリック教会を国家の管理下に置くものであった。司教区の行政的再編成、宗教的秩序の廃止、戸籍抄本の民間委譲、聖職者の叙任・給与などについて定め[12]、これにより聖職者公務員の扱いとなり、教会ではなくて、人民によって選任される立場になった。また、憲法[注釈 3]を全力で維持すること等の宣誓を義務としたため、聖職者の大多数が聖書以外に誓いを立てることを拒否し、革命と宗教との対立に発展した。敬虔なカトリック教徒であった国王は困惑したが、王党派聖職者の助言を受けて裁可に同意する。ところがローマ教皇ピウス6世は公にこれを強く批判し、宣誓者を批判して異端宣告することすら示唆したため、波紋が広がり、宣誓拒否聖職者(宣誓忌避聖職者)と立憲派聖職者の対立は一般の信徒も巻き込んで深刻の度合いを増した。信仰の根強い地方では、宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動したため、ヴァンデの反乱の原因の一つとなり、反革命運動の根源ともなった。

これは1794年に廃止されるが、ローマ・カトリック教会とのフランスとの敵対、およびフランス・カトリック教会内の分裂は、1801年7月16日ナポレオン体制における政教条約で和解がもたらされるまで続いた。
背景1790年2月13日の聖職者の終身誓約修道会の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士[注釈 4]

第一身分たる聖職者は、1789年全国三部会では第三身分たる平民と協力して愛国的団結を示した。7月14日バスティーユ襲撃事件でフランス革命が勃発したときも、聖職者は革命の高揚感を共有した。しかし憲法制定議会がアンシャン・レジーム(旧体制)の解体に乗り出すと、絶対主義国家体制に密接に関与していたフランスのカトリック教会はいくつかの経済的打撃を被ることになった。

1789年8月4日の夜(フランス語版)の宣言では、世俗領主でもあった教会も封建的諸権利を失った。しかしこれは補償が受けられる予定で聖職者の議員の多数が賛成した。例外とされたのは、ローマ教皇に収めるべき初収入税[注釈 5]などであった。十分の一税についてはすぐには結論が出せずに、1年ほど長く議論され、翌1790年8月11日になって無償廃止と決まった。これに対してアベ・シェイエスは法的平等にそぐわないと反対したが、ミラボーは教会の持つ公益性を盾にこれを退けた。

1789年11月2日の教会財産国有化令が最も大きな痛手であったが、率先したのも革命派の聖職者であった。オータン司教タレーラン=ペリゴールは、教会財産を「国民の自由処分にゆだねる」[13]ことを提案し、三部会召集の原因となった財政赤字の埋め合わせとするように主張した。エクス大司教ジャン・デ・デュ・ラモン・キュセ・ド・ボワジュラン (Jean de Dieu-Raymond de Cuce de Boisgelin) やモーリ枢機卿 (Jean-Sifrein Maury) [注釈 6]は強奪に等しいとして反対したが、シェイエスやミラボーは、教会は財産の所有者ではなく、用益権[注釈 7]を保持していたに過ぎず、教会の公益事業は国家が引き継げばよいと主張して、採決の結果、346票対568票で可決された。

また議会は人権宣言の精神に則って、1790年2月13日、聖職者の終身誓約と修道団体の廃止(修道院の閉鎖)を宣言して、聖職者に職を辞める自由を与え、修道院を出たいものは自由に出て良いと許可した。一方で4月13日、カトリックが国教であると承認するように要望した動議は、信教の自由を名目に否決されたが、カトリックは唯一国家から補助金をもらえる宗教であることになった。国有化された教会財産の処分はしらばく宙に浮いたままであったが、タレーランの提案が改めて採用され、4月17日アッシニアという土地債券の形で売り出されることになった。これに伴い、すでに教会礼拝費と聖職者年金は予算に組み込まれていたが、細則が決まっていなかったので、聖職者をどう処遇するかを定義する法律が必要になった。

ところが議会や委員会で討論が進むうちに、そもそも国家あるいは議会が保持する世上権に、キリスト教の伝統に抵触するような教会組織の根本を改革する権限があるのかについて論争が起こった。反対の急先鋒であったボワジュランは、国家には宗教界を論じる資格はないと主張し、教会法(ここではカノン法の意味)の変更は宗教会議によってのみなされ、普遍教会の長の承認が必要であるとした。しかし推進派のジャン=バプティスト・トレヤール (Jean Baptiste Treilhard) [注釈 8]はこれを一蹴し、旧体制の教会組織がいかに腐敗していたかを力説した上で、教会の管轄権は信徒の説喩と秘蹟の授与に限られるとしたフルーリーの学説を持ち出して、教会の管轄権は信仰教義にしか及ばない、法の介入による改革は宗教に本来の純粋さを取り戻すだろうと主張して大喝采を浴びた。宗教会議招集が否決されたので、ボワジュランはそれならば教皇から聖会方法を得ようと主張し、教皇庁に急遽特使が派遣されることになった。『特権階級の最後のしゃっくり』

フランスのカトリック聖職者たちの大半は革命に好意的であった。伝統的にローマに対するフランス国家主権の優越を認める立場(ガリカニスム)だったことに加えて、この階層の知識人は啓蒙思想に深く染まっていたからである。また三部会を引き継いだ憲法制定議会の約4分の1の議員は聖職者だった事情もあって、彼らは議会の姿勢に理解を示すか、自らが革命の指導者として名を連ねていた[注釈 9]。経済的な問題では、下位聖職者の生活水準はむしろ向上することになり、旧体制で豪華な生活をしていた高位聖職者は槍玉に挙がるのを恐れていたので、異議を唱えるのは差し控えられていた。ヘンリー8世ヨーゼフ2世などによって、近隣諸外国ではもっと厳しい教会改革が行われた前例があったことも、すぐに国内で大きな反発を生まなかった要因であった。

議会は教皇から「洗礼が授けられる」ものと無邪気に考えていた。同様に世俗権力であるロシアエカチェリーナ2世がポーランドのカトリック教区の区割りを変更した際に、ピウス6世が抗議しなかった前例もあった。しかし貴族出身の教皇は最初から革命に敵意を抱いており、世俗的立場から特権撤廃を苦々しく受け止めていたことについて、注意が払われていなかった。教皇はアヴィニョンなどフランス国内の教皇領の領民が革命に共感してフランスへの併合を求めていることに苛立ちを募らせ、1790年3月29日の枢機卿会議では人権宣言の原理を「背神行為だ」と断罪せずにはいられなかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:104 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef