聖福寺
山門
所在地福岡市博多区御供所町6-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度35分49.3秒 東経130度24分50.8秒 / 北緯33.597028度 東経130.414111度 / 33.597028; 130.414111
聖福寺(しょうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」として知られる。境内は国の史跡に指定されており、主に江戸時代に再建された伽藍がある。山号は安国山(通称は安山)。 寺に伝わる『栄西言上状』によると、建久6年(1195年)に日本の臨済宗開祖の栄西が宋より帰国後、鎌倉幕府・源頼朝より八町四方(約900m四方)を賜り[1][2]、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した[2][3]。元久元年(1204年)に落成し、「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰を賜り、山門には後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる[2]。これが日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場である[2]。最盛期は、京都五山十刹制の第3位に列する名刹であり[2]、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・子院を38ケ寺も擁する一大伽藍を誇る博多の中心的寺院であった[4]。境内の中に寺中町(関内と呼ばれている)を形成し、今にも残る博多の地名で、普賢堂、中小路、魚町、天屋、蓮池、西門などは当時の寺内町の町割りがそのまま残ったものである[1][3]。また子院・直指庵は九州探題が置かれた場所でもあり、外交交渉の窓口として外交僧を輩出した[2][5]。室町時代末期・永禄6年(1563年)には戦乱で兵火を受け伽藍が焼失[6]。永禄11年(1568年)第110世・耳峰玄熊が住職に就任し、元亀元年 (1570年)から 再興するが、再び天正2年 (1574年) 伽藍がことごとく消失し荒廃する。天正15年(1587年)に豊臣秀吉による太閤町割によって境内は四町四方に縮小されるが、領主小早川隆景が寺領300石を寄進、隆景庇護のもと、玄熊が仏殿や総門などの諸堂宇を再建した。その時の状況を伝える、隆景寄進の銘がある朝鮮鐘や、「永禄の変で散逸したが修補した」旨の玄熊の奥書のある「聖福寺絵図」や寺内町の「借家牒」などが現存し、玄熊は中興の祖と称せられる[1]。他文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、慶長5年(1600年)に黒田長政より200石など、幾多の武将による寺領の寄進が伝えられている。 当寺は、当初臨済宗単独寺院であったが、開山の栄西が京都に建仁寺を開山したのち、建仁寺派となる。また、江戸時代には黒田長政の命により、妙心寺派となり現在に至っている。 江戸時代の文化・文政期には、禅画で名高い仙豪`梵がこの寺の住職を務め、文人の間に当寺の知名度を上げた。 現存する主要な伽藍は、江戸時代に再建されたものであり、三門、仏殿、本堂が一直線に並ぶ配置は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置をよく示しており、境内は国指定史跡となっている[2]。 1946年8月から1947年2月まで164名の引揚孤児の世話がなされた「聖福寮」は、福岡引揚援護局によって開かれ、福岡友の会が実務を担当したが、この寮は当寺の境内に設けられた[7]。 伽藍配置は、典型的な禅宗様式。日本最初の禅道場として、塔頭も含め全域が国の史跡指定。境内は拝観自由だが堂宇内部は基本的に拝観不可で、通常は一般公開を行っていない。行事等がある時のみ公開される場所がある。
歴史
伽藍勅使門山門前に瓢型放生池と太鼓橋仏殿庫裏
総門 - 四脚門、切妻造本瓦葺。足利紫山[注釈 1]書の「安國山」の扁額が掛かる。寺伝によると、名島城にあった門を移築したと伝わる[8]。
勅使門 - 切妻造本瓦葺。門扉に十六弁菊花紋章がある。文政10丁亥年(1827年)修築の棟札がある[9]。
無染池 - 勅使門と山門の間にある放生池。池の形状が瓢箪形のため「瓢池」とも呼ばれている。2010年(平成22年)に造園・作庭家の北山安夫により大幅に改修された[10]。
山門 - 江戸初期に櫻井神社の観音堂を移築、その後、慶応2年(1866年)に焼失。1911年(明治44年)に再建。上層に龍の天井絵、千手観音、十六羅漢像が安置されている[11]。 -
鐘楼 - 天正17年(1589年)建立。のち宝暦9年(1759)改築。重要文化財の銅鐘(朝鮮鐘)が1976年(昭和51年)まで掛かっていた[12]。
仏殿 - 天正17年(1587)年に再建され、2012年(平成24年)9月8日に2年余りを掛け増改築を行い落慶法要し、丈六三世仏の過去仏「阿弥陀如来」、現世仏「釈迦如来」、未来仏「弥勒如来」を新たに造立し安置[13]。
方丈 - 慶長6年(1601年)福岡藩初代藩主・黒田長政により、肥前名護屋城より移築。長政修理の棟札が残る。その後、雨漏りなどの傷みがひどく、棟が崩落し、弘化2年(1845年)大改修。