聖神社
拝殿
所在地埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度03分00.3秒 東経139度06分09.3秒 / 北緯36.050083度 東経139.102583度 / 36.050083; 139.102583 (聖神社 (秩父市))
聖神社(ひじりじんじゃ)は、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する神社である。秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。西暦708年(慶雲5年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。旧村社。 金山彦命、国常立尊、大日?貴尊(天照大神)、神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいかがねのみこと。当初は「はじめあかがねのみこと」と読まれた可能性もある。元明天皇)を合祀する。 なお、境内石碑には『…当社はこの歴史的由緒ある「自然銅を主神」として祀り、更に金山彦命、元明金命を合祀し…』たとある。 和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。 第43代元明天皇の時代に、武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年(708年)正月11日に郡司を通じて朝廷に献上された。これを喜んだ朝廷は同日に「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して、和同開珎を鋳造させた[1]。この和銅の発見地が当神社周辺であると伝わる。 社伝によれば、当地では自然銅の発見を祈念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀った。 銅の献上を受けた朝廷は、銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣し、共に盛大な祝典を挙げた。和銅元年(708年)2月13日に清浄な地であるとして現社地へ神籬を遷すと、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置し、金山彦命と国常立尊、大日?貴尊、神日本磐余彦命の4柱を神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めたのが創祀である。後に元明天皇を元明金命として合祀し「父母惣社」と称したと伝わる[2]。 『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を防ぐため、寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管された。1953年(昭和28年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭に際し、これらは神社の宝蔵庫に移還されたが[3]、現存する和銅は2塊のみである[4]。 秩父郡からの和銅の献上を記録する『続日本紀』等では、産出地について「秩父郡」とのみ記され、つまり以降の具体的な地名を記さないため、その地点が当地であったとは限らない。地質学上は秩父盆地一帯にかけてその可能性があったと考察されている[5][6]。 だが、当神社周辺には中世から近世にかけて使用された和銅の選鉱場や製錬所跡があり(市指定史跡・黒谷銅製錬所阯)[7]、平坦部には埋没した鉱石の破片が散乱、また「銅洗沢」や「銅洗掘(どうでんぼう)」、三宅麻呂等の勅使が滞在したと伝わる「殿地(どんぢ)」等の銅山経営に因む地名も残るため、一帯が銅採掘の重要拠点のひとつであった事は確実視されている[3][5]。
祭神
由緒