聖武天皇
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聖武天皇
『聖武天皇像』
鎌倉時代・作者不詳
第45代天皇
在位期間
724年3月3日 - 749年8月19日
神亀元年2月4日 - 天平感宝元年7月2日
元号神亀
天平
天平感宝
時代奈良時代
先代元正天皇
次代孝謙天皇

誕生701年9月18日
崩御756年6月8日(54歳没)
陵所佐保山南陵
漢風諡号勝宝感神聖武皇帝
(聖武天皇)
和風諡号天璽国押開豊桜彦天皇
諱首(おびと)
別称沙弥勝満
父親文武天皇
母親藤原宮子
皇后藤原光明子
夫人藤原南夫人
藤原北夫人
橘古那可智
県犬養広刀自
子女孝謙天皇
基王
安積親王
井上内親王
不破内親王
皇居難波宮 平城宮
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聖武天皇(しょうむてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:聖󠄁武天皇、701年9月18日大宝元年8月12日〉 - 756年6月8日天平勝宝8歳5月2日〉)は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。

は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する[1]尊号諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子
略歴

大宝元年、文武天皇の第一皇子として生まれる。慶雲4年6月15日707年7月18日)に7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、その後は長らく会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは37のときであった。慶雲4年7月17日(707年8月18日)、父方の祖母・元明天皇天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首親王の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日715年10月3日)に伯母(文武天皇の姉)・元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった[注釈 1]。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。

ただし、当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかった[注釈 2]。このため、即位と同時に当時9名いた議政官全員の昇叙(位階の昇格)もしくは益封(封戸の増加)を行い[注釈 3]、その18日後には六人部王長田王葛木王以下諸王10名と大伴宿奈麻呂多治比広成日下部老以下諸臣44名の昇叙を行っており、以降天皇即位時の臨時の昇叙が慣習として定着する。即位時の臨時の昇叙自体は天武天皇の先例に基づくものとされているが、天武天皇の即位自体が壬申の乱による皇統の変更という異常な状況下で実施されたことに留意する必要がある[4]

聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[注釈 4]。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。

天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられていて彷徨五年と呼ばれている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震[5]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立のを、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[注釈 5]。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年1月13日(744年3月7日)には安積親王脚気のため急逝した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。

天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)[注釈 6]、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる[注釈 7])。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。

天平勝宝4年4月9日752年5月30日)、東大寺大仏開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った。同時期に、長く病気を患っていた母・宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。天平宝字2年(758年8月9日、「勝宝感神聖武皇帝」と諡され、後には聖武天皇と呼ばれるようになった。


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