聖書原典(せいしょげんてん)とは、聖書記者によって書かれた聖書の親筆書を指して使われる語である。親筆書は現在地上に存在しない。 プロテスタントは旧約聖書がヘブライ語(一部アラム語)で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれたと考えるのに対し[1][2]、カトリック教会はウルガータからギリシャ語のものも旧約に含めている。[3][4] ヒエロニムスは原典が霊感の書であると認めた[5]。 ローマの教皇を中心とするカトリック教会では、トリエント公会議でウルガータの権威が主張された[6][7]。トリエント公会議は正典として旧約46巻、新約27巻をあげたが、これは伝承によるとされる。[8] カトリック教会では聖書の特に旧約聖書の中で、神の霊感によって書かれたことが、教父らによって疑われたことのないものが、原聖書聖典(Protocanonical,英:Protocanonical books エキュメニズムの『新共同訳聖書』ではプロテスタントが外典と呼んできたものが、第二正典、旧約聖書続編として収録されているものもある。 歴史的キリスト教会は「霊感された原典」と「霊感されない写本」の区別を共通の見解とし、福音主義教会は基本的にウェストミンスター信仰告白に告白されているものと同じ立場である[10]。聖書啓示は完結しており原典にない書は排除される[2]。プロテスタント正統主義の歴史的な信仰告白で旧新約聖書66巻が告白されてきた。聖書信仰に立つ福音派は聖書が原典において誤りない神のことばであり、聖書記者によって書かれたその時から誤りない神のことばとしての権威をもっていたとする信仰をもっており、聖書が教会の権威によって正典としての権威を持つようになったとする思想を退け、教会は聖書の権威を確認したに過ぎないとする[11]。この原典とは聖書記者が書いた親筆書そのものである聖書を指して使われる語である。福音派は66巻の聖書以外は神の霊感を受けていないのであり、ローマ・カトリックや新共同訳のように原典に含まれていない文書を付加することはヨハネの黙示録に災害をもって警告されている冒涜であって、新共同訳は正典と外典の違いについて無知であると認識する[12][13]。聖書の無誤性に関するシカゴ声明でも聖書が原典において誤りない神の言葉であることが確認された。これは福音派の多くの信仰宣言に明記されており、聖書の権威に関する宣言により、全的無誤性が福音派の合意として確認された。[14][15]
言語
教父
カトリック教会
エキュメニズム
プロテスタント
脚注^ 『新聖書辞典』いのちのことば社
^ a b 矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』新教出版社
^ 『私たちにとって聖書とは何なのか』p.181-182
^ 『新共同訳聖書-旧約聖書続編つき-』NI44DC「序文」ページII ISBN 4820210386
^ 『私たちにとって聖書とは何なのか』p.157-158
^ ⇒The Council of Trent(英語)
^ 『私たちにとって聖書とは何なのか』p.190
^ 『私たちにとって聖書とは何なのか』p.189-190
^ 『現代カトリック事典』エンデルレ書店
^ 宇田進著『現代福音主義神学』「霊感は原典について言われる」p.232
^ 『聖書の権威』p.90,p.98
^ 尾山令仁著『ヨハネが受けたキリストの啓示』羊群社 p.323-325
^ 『日本をキリストへ』収録服部嘉明著「教会と聖書」p.94
^ 中村敏著『日本における福音派の歴史p.228-229
^ 中村敏著『日本キリスト教宣教史』p.336
参考文献
『福音主義キリスト教と福音派』宇田進著 いのちのことば社
『聖書の権威』尾山令仁著 日本プロテスタント聖書信仰同盟(再版:羊群社
『聖書の教理』尾山令仁著羊群社
『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』和田幹男 女子パウロ会