.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}聖徳太子(しょうとくたいし)
(豊聡耳皇子)
聖徳太子(『聖徳太子勝鬘経講讃図』より)
皇太子
在位推古天皇元年4月10日(593年5月15日)- 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
時代飛鳥時代
生誕敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)
死没推古天皇30年2月22日(622年4月8日)[1]
別名上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、厩戸豊聡耳皇子、法主王、豊聡耳聖、徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮厩戸、厩戸皇太子、多利思比孤
諡号聖徳太子
墓所磯長墓(叡福寺北古墳)
父母父:用明天皇、母:穴穂部間人皇女
兄弟田目皇子、豊聡耳皇子、当麻皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、酢香手姫皇女
(同母異父妹)佐富女王
妻菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、膳大郎女
子山背大兄王、財王、日置王、白髪部王、長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、片岡女王、手島女王、舂米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王
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聖徳太子(しょうとくたいし、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:聖󠄁コ太子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号[2]。また近年は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ[3])、厩戸王(うまやとおう[4])など本名は厩戸と言われることも多いが、あくまでも第二次世界大戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見られない[5]。
叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)[6]。 本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている[7]ほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる[8]。「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり[5]、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく[9]、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった[5]。
名称
本名