聖家族_(小説)
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この項目では、堀辰雄の小説について説明しています。古川日出男の小説については「古川日出男#作品リスト」をご覧ください。

聖家族
作者堀辰雄
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『改造1930年11月号(第12巻第11号)
刊本情報
出版元江川書房
出版年月日1932年2月20日
装幀堀辰雄
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『聖家族』(せいかぞく)は、堀辰雄短編小説。師であった芥川龍之介自殺の衝撃から創作された作品で、文壇で認められた堀辰雄の出世作であり、初期の代表作でもある[1][2]。ある青年が、敬愛する師の死をきっかけに、師の恋人だった夫人と彼女の娘と出会い、師と夫人の関係に、青年自身と少女の恋愛を重ねながら自己のあり方を確立してゆく物語。死者を軸にした3人の微妙な心理描写が、ラディゲコクトーから学んだ理知的な手法や文体で描かれている[2][3]。堀は初版刊行にあたって、「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞をつけている[4]
発表経過

1930年(昭和5年)、雑誌『改造』11月号(第12巻第11号)に掲載され、翌々年の1932年(昭和7年)2月20日に堀自身の装幀で江川書房より単行本刊行された[5]。文庫版は新潮文庫の『燃ゆる頬・聖家族』、岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されている。
作品成立・背景

堀辰雄は1923年(大正12年)の10月に、室生犀星から芥川龍之介を紹介されて以来、芥川を師として慕い、芥川の滞在していた軽井沢にも行っていたが、そこで芥川の恋人であった片山広子(筆名:松村みね子)の家族とも交流を持つこととなり、芥川と片山広子の恋愛も知っていた[6][2][7]。その芥川が突然、1927年(昭和2年)7月24日に自殺したことは、堀にとって大きな衝撃であった。当時東京帝国大学文学部国文科の学生であった堀は、1年半後の卒業論文に以下の「芥川龍之介論」を記した。芥川龍之介の死は僕の眼を「死人の眼を閉ぢる」やうに静かに開けてくれました。(中略)実は、僕も最初、彼の晩年の作品の痩せ細つた姿を唯痛々しさうに見てゐた一人でありました。しかし彼は最後に、彼の死そのものをもつて、僕の眼を最もよく開けてくれたのでした。僕はもはや彼の痩せ細つた姿だけを見るやうな事はしなくなり、彼をしてそのやうに痩せ細らせたものに眼を向けはじめました。そして、その彼の中のそのものが僕を感動させ、僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります。 ? 堀辰雄「芥川龍之介論―芸術家としての彼を論ず」[8]

さらに堀は卒論を発表した同年、「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事の終つたところから出発するもののみが真の弟子であるだらう。芥川龍之介は僕の最もいい先生だつた」と述べ[9]、芥川が最後の残した言葉である「何よりもボオドレエルの一行を!」を挙げながら、「僕は此の言葉の終るところから僕の一切の仕事を始めなければならない」という決意を示し[9]、日記にも、「我々ハ《ロマン》ヲ書カナケレバナラヌ」と日記に記している[2][4]

芥川の死から約3年後に発表された『聖家族』は、「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた」という象徴的な冒頭文で始まり、その理知的な心理描写や文体にラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の影響が見られる[2][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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