聖宝
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聖宝
832年3月21日 - 909年7月25日
理源大師 (江戸後期)
諡号理源大師(宝永4年(1707年)1月)
生地讃岐国 本島
宗派真言宗小野流
寺院醍醐寺
真雅ほか
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聖宝(しょうぼう、天長9年2月15日832年3月21日) - 延喜9年7月6日909年7月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王(つねかげおう)。光仁天皇の玄孫で、兵部大丞・葛声王(かどなおう)の子[1]諡号は理源大師。

なお、聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になる。
生涯

空海の実弟真雅の入室弟子で、源仁(真雅の弟子)の付法弟子。貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄として知られた。真雅在世中に真言宗の傍流的位置にとどまっていた背景には、真雅との確執があったとも言われる。出家から長い間三論宗を中心に南都諸宗を学んでいたが、壮年期以降、本格的に受法して真言密教正嫡となり、宇多天皇の厚い帰依を受けて東寺長者僧正などの重職に昇った。また、役小角に私淑して吉野金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行うとともに、参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力した。このため、聖宝を、役小角以降途絶えていた修験道の再興の祖とする伝承が生まれた。聖宝の著作と伝えられる修験道関係の書は、今日では、すべて聖宝に仮託して後世に書かれたものとみられている。

勅撰歌人として『古今和歌集』に和歌作品が1首採録されている[2]
経歴

天長9年(832年)2月15日、讃岐国(現・香川県)・塩飽諸島本島で生まれる[3]

承和14年(847年)、16歳のとき真雅(当時、東大寺別当)に随い出家。東大寺に入る。はじめ元興寺の円宗、願暁から三論宗を学び、次いで東大寺の平仁に法相宗、玄永に華厳宗を学ぶ。諸宗を学んだが、三論を本宗とした。

貞観11年(869年)、興福寺維摩会の竪義を勤める。

貞観13年(872年)、真雅に無量寿法を受ける。

貞観16年(875年)6月、山城国宇治郡の笠取山(醍醐山)[4]の山頂に醍醐寺(上醍醐)を開創したと伝えられる。

元慶3年(879年)2月、弘福寺(川原寺)別当に任ぜられる。

元慶4年(880年)、真然に両部大法を受ける。

元慶8年(884年)、源仁から伝法灌頂を授けられる。

仁和3年(887年)3月、朝廷から正式に伝法灌頂職位を授けられる。

寛平2年(890年)8月、貞観寺座主に任ぜられる[5]

寛平6年(894年)12月、権律師、権法務に任ぜられる。弘福寺検校に任ぜられる。

寛平7年(895年)2月、東寺二長者となる。

寛平8年(896年)、東寺別当を兼ねる。

寛平9年(897年)12月、少僧都に任ぜられる。

昌泰2年(899年)、一説に宇多法皇が東大寺で受戒したとき戒和尚を務める。

延喜元年(901年)1月、大僧都に任ぜられる。

延喜2年(903年)3月、権僧正に任ぜられる。

延喜5年(905年)7月、佐伯氏の氏人から東大寺東南院を付属され、院主となる[6]。東南院は聖宝の門流によって代々継承され、三論教学の拠点として発展。

延喜6年(906年)10月、僧正に任ぜられる。法務となる。東寺一長者となる。

延喜7年(907年)、醍醐寺が醍醐天皇御願寺となる。以後、山麓の下醍醐を中心に飛躍的に発展。醍醐天皇のため准胝堂で朱雀村上両帝の誕生を祈ったと伝えられる。

延喜9年(909年)4月、病床に就く。宇多法皇、陽成上皇が普明寺に病気を見舞う。6月、上表して僧正を辞する。7月6日、入滅。享年78。

宝永4年(1707年)1月、理源大師の諡号を賜る。

思想・評価

南都諸宗と真言密教の綜合
京都山科の地(現在の伏見区醍醐)に醍醐寺を開山する一方で、東大寺に東南院を建立して三論教学の拠点を築いたことは、聖宝の中観/般若空重視の態度という観点とともに、宗祖
空海によって実施された南都大寺における儀礼の真言密教化という観点からも重要である。真言教学は、元来、華厳経の教説を基盤としている。言い換えると、華厳教学が秘密曼荼羅十住心論において第八(天台法華)ではなく第九住心に配置された意味を併せて考えれば、即身成仏義の重重帝網(無碍)が、一即多・多即一という華厳教学を象徴的にする哲理を重要な基礎として、実践作法の理論的基礎に展開したとも考えられるからである。『この世界は仏の身体である(六大)』として、沈黙する存在とされていたビルシャナ仏が自ら説法すると宣言した意味(法身説法)は大きい。方便を極めて重要視する密教信仰において、理論から実践への橋渡しをすることは、大乗仏教興隆の観点からも望ましいと思われる。この点に聖宝が宗祖空海の直系を自覚して、東大寺における活動を推進した根本義が表れていると見るべきである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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