聖パトリック大聖堂
聖パトリックの国立大聖堂およびカレッジチャーチ
ダブリンの聖パトリック大聖堂(英語: Saint Patrick's Cathedral, アイルランド語: Ard Eaglais Naomh Padraig)、正式には聖パトリックの国立大聖堂およびカレッジチャーチ (The National Cathedral and Collegiate Church of Saint Patrick, Dublin)は、1191年に創設された大聖堂。現在はアイルランド聖公会の管轄でありダブリンに2つある聖公会の大聖堂のうち大きいほうであり (もうひとつはクライストチャーチ大聖堂) 、アイルランド島全体でも最大の教会である。
珍しい例ではあるが、大聖堂であるにもかかわらず主教座がこの教会には存在せず、ダブリン大主教の主教座はクライストチャーチ大聖堂にある。そのため1870年からは聖パトリック大聖堂をアイルランド島全体のために国立大聖堂とし、聖堂参事会 (chapter) の委員はアイルランド国教会の12の主教区全体から選ばれている。また、2007年からは他教派の聖職者も参事会に加わった。教会としては1219年から置かれている首席司祭 (Dean) によって統率されており、最も有名な首席司祭はジョナサン・スウィフトである[1]。
歴史
中世大聖堂の内観
1192年、イングランド人 (アングロ・ノルマン) としては初めてダブリン大主教になったジョン・カミン(John Comyn)は4つあったケルト系教区教会のうちひとつの地位をカレッジスクール (collegiate church。聖堂参事会によって管理される教会) に格上げした。その教会は聖パトリックに捧げられており、同じ名前を持つ聖泉(holy well)[2]のそばに位置し、ポドル川 (en) の2つの支流にはさまれた土地にあった。これにより教会は聖職者とともに学問と崇拝双方にいそしむこととなった。新たなカレッジスクールは従来のダブリン市の境界を超え、この動きによって新しい2つ (うちひとつは大司教の世俗管轄権下であった) の都市領域が生まれた。1192年3月17日には教会は捧げる対象を「神、我らが聖なるマリア様そして聖パトリック (God, our Blessed Lady Mary and St. Patrick)」とした[3]。
1191年もしくは1192年に発行され、13人のカノンによる聖堂参事会および3つの特別高僧(尚書(Chancellor)、先唱者(Precentor)、会計(Treasurer)の3つ)を認めたカミンの設立認可状は時の教皇ケレスティヌス3世の教皇教書によってその年の内に承認された。13人の受禄聖職者は大司教の土地から与えられた教会を付与されていた。
時が下るにつれて、建造物全体は大聖堂に近いものとなり、大司教座である聖墓宮殿(the Palace of the St. Sepulchre)を含み、法的管轄権は大聖堂一帯の首席司祭により監督される特権と、それと隣接するがより大きな大司教の保持している管轄権とに分割された。
教会がさらに大聖堂に格上げされた正確な時期はっきりしていないのではあるが、すでに大聖堂が存在する都市で起こったこの奇異な動きはおそらく1192年以降に起こっており、カミンの後任の大司教であるロンドンのヘンリは1212年にクライストチャーチと聖パトリック双方の聖堂参事会によって選ばれている。この任命はインノケンティウス3世によって承認された。これらの問題については後述する#2つの大聖堂問題を参照。1218年から1220年の間、ヘンリーはさらなる設立認可状を聖パトリック大聖堂とその聖堂参事会に与え、そのひとつである1220年のものは、大聖堂を率いるために首席司祭のオフィスを設置するというものであり[4]、選出の権限は聖堂参事会のカノンのみに割り当てられた。
アイルランド最大の教会として知られている現在の教会のルーツとなる建築物は1191年から1270年の間に建築されたが、それよりもさらに古い建築物の遺構は洗礼堂を除いて今ではほとんど残っていない。多くの建設はロンドンのヘンリの前言によって前もって監督された。彼はイングランド王の友人であり、そしてマグナ・カルタには連署人として名を連ね、さらにダブリンの市壁やダブリン城の建設にも携わっていた。
1225年のヘンリー3世の命令から改築のための4年間、島を越えての寄付金が認められ、その初期イングランドゴシック様式の建設は少なくとも1254年の再献呈まで続いていた。1270年ごろにはレディーチャペルが加えられた[5]。
1300年、ダブリン大司教フェリングスは2つの大聖堂を統合するための協定(Pacis Compostio)を取り決めた。これは双方とも司教座聖堂として認められている2つの大聖堂が分有する形となっていた権限を順応させるための対策であった[6](詳しくは#2つの大聖堂問題を参照)大聖堂で1581年から1585年まで首席司祭を務めていたトマス・ジョーンズの記念物
1300年代半ばから500年間、建物の北側翼廊は聖ニコラス外部の教区教会として使われていた(言い換えると、聖ニコラス小教区の一部は本来の都市から外れていた)。火災の後、塔(マイノットの塔 Minot's Tower)と西身廊は1362年から1370年の間に再建された。
非常に早い時期からこの教会には浸水問題が付きまとっており、いくつかの洪水、中でも18世紀後半には周囲に流れるポドル川支流によって引き起こされたものが特筆される。20世紀にはいっても地下水面が床下7.5フィート(2メートル強)以内にあり[7]、この大聖堂においては地下聖堂や地下室は確実に存在しなかったであろうことを物語っている[8]。
イングランドの宗教改革(改革は1536年から1564年まで紆余曲折あったが、聖パトリックは1537年からその影響を受けていた)の後、聖パトリックは聖公会であるアイルランド国教会の大聖堂となったが、ペイル周辺の人々のほとんどはローマ・カトリックのままであった。徴発の間、大聖堂に収められているいくつかの像はトマス・クロムウェルが率いていた兵士によって傷つけられ、その後も十分な管理がなされなかった状況は1544年の身廊の倒壊につながった。
エドワード6世の治世中、聖パトリック大聖堂は公式に抑圧され、建築物は教区教会の地位に格下げされた。1547年4月25日に200マルク英貨の扶助料が首席司祭であるエドワード・バスネット (Sir Edward Basnet) に支払われ、続いて数ヵ月後には60マルクの扶助料が尚書のアリエン (Alien) と先唱者のハンフリー (Humphrey) に、さらに40マルクが副主教のパワー (Power) に支払われた。銀、宝石や装飾品はクライストチャーチの首席司祭や聖堂参事会に移譲された。
王は建物の一部を裁判所として使うように指定し、さらにカテドラルグラマースクール (the Cathedral Grammar School) は当時の教区牧師の邸宅に設立され、首席司祭の邸宅は大主教に与えられ、大主教邸宅のアイルランド総督への移譲が続いた。1549年には壁を塗りなおし、そこに聖書の一節を刻むよう、さらに命じられた。
1555年、フェリペ2世とメアリー1世の宣言書により大聖堂の特権を回復し[9] さらに復旧に着手した。1558年4月27日付で発せられたメアリー1世の治世後期の公文書は聖パトリックの新たな首席司祭であるトマス・レヴェロスおよび聖堂参事会へ、大聖堂に属するおよびクライストチャーチの首席司祭と聖堂参事会が保有していた「道具、家財、楽器、等々」の返却もしくは受領という内容で構成されていた
1560年、ダブリン初の公共時計のうちひとつは「聖パトリックの尖塔」に立てられた。 1600年代の初めごろにはレディーチャペルはすでに荒れ果てていたといわれ、クワイヤ西端に位置していたアーチは木摺と漆喰の仕切り壁によって切り離されてしまった。日常的な大量の訪問客もおり、大量の客に対応するためにギャラリーの一団が加えられた。 オリヴァー・クロムウェルがそのアイルランド侵略で滞在している間、イングランド共和国の護国卿は馬を大聖堂の身廊に入れ馬小屋代わりにしていた。これはクロムウェルの聖公会に対する軽蔑のデモンストレーションという狙いがあり、彼は聖公会に対してローマカトリックと政治的には国王派 (Cavalier) を連想していた。 1660年の王政復古の後、建築物の修復は始められた。1666年、大聖堂の聖堂参事会はフランス語を話すユグノーらのためにレディーチャペルを提供した。このユグノーたちはアイルランドに逃れてきた一団であり、後にはいくらかの修理と支度の仕事をして、それらは聖パトリックの教会フランス人 (L'Eglise Francaise de St. Patrick) として知られている。貸し出しは1665年12月23日に調印され、それからユグノーが完全に都市の人々に埋もれそのサービスが終わる1816年にまでしばしば再開された。
1600年代