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聖セバスティアノ
聖セバスティアヌス、マルコ・パルメッツァーノ
聖セバスティアヌス (Sebastianus, 伝承による没月日287年1月20日)、あるいは聖セバスティアノは、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会)の聖人・殉教者(致命者)。聖セバスチャンとも表記される。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたといわれてきた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。正教会では聖致命者セバスティアンと呼称され、記憶日は12月18日(ユリウス暦を使用する正教会では12月31日に相当)[1]。カトリック教会での祝日は1月20日。 セバスティアヌスの殉教の詳細は、初めアンブロジウスによって仕上げられた。ミラノ司教アンブロジウスは、ミラノからセバスティアヌスが来たことを述べ、彼は既に4世紀に列聖されていたことがわかる。 ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』の内容をここに引用すると、セバスティアヌスはガリア・ナルボネンシス(現在のフランス・ラングドックとプロヴァンスにまたがるローマ植民地)の生まれで、ミラノで教育を受け、その後ディオクレティアヌスとマクシミアヌス配下の親衛隊の長に任命された。皇帝は彼がキリスト教徒であることに気がついていなかった。 セバスティアヌスは、囚われの身であった2人のキリスト教徒マルクスとマルケリアヌス
生涯
言い伝えに依れば、マルクスとマルケリアヌスは兄弟で助祭であった。2人はどちらも優れた一族から妻を娶り、ローマに妻子と暮らしていた。兄弟はローマの神へ犠牲を捧げるのを拒否して逮捕されたのである。兄弟は父トランキリヌス、母マルティアが獄中を訪問した際、2人からキリスト教棄教を嘆願されていた。
セバスティアヌスは聖ティブリティウスとスザンナ同様に、トランキリヌスとマルティアをキリスト教に改宗させた。士官ニコストラトゥスの妻ゾエも改宗した。言い伝えによると、ゾエは6年も言葉を発しなかったという。しかし、彼女はキリスト教に改宗したいという望みをセバスティアヌスに知られたのである。改宗するとすぐに、ゾエの口に言葉が戻った。ニコストラトゥスは囚人の残りを連れ出した。彼ら16人はセバスティアヌスによって改宗していたのである[2]。
士官クロマティウスとティブルティウスも改宗した。クロマティウスは囚人を解放してその職を辞し、カンパーニアの故郷に隠退した。 マルクスとマルケリアヌスは後にカストゥルスによってかくまわれたが、ニコストラトゥス、ゾエ、ティブルティウス同様に殉教した。 ディオクレティアヌス帝はセバスティアヌスが裏切りを支援したことを責めた。そして皇帝はセバスティアヌスを草原へ引き立てるよう命じた。彼を縛り付ける杭が打たれてあった。そして射手たちが、まるで針でいっぱいのハリネズミのように、彼に多くの矢が突き刺さるまで射続けた[3]。 そして、セバスティアヌスは死ぬまでそこに放って置かれた。奇跡的に、矢で射られても彼は死ななかった。聖カストゥルス
殉教
セバスティアヌスは黒死病から信者を守るといわれてきた。『黄金伝説』によれば、グンブルト王時代にロンバルドを黒死病の大流行が襲った際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立したことで、流行が止んだという[4]。 聖遺物は、現在ローマのバシリカ内にあると主張がされている(367年にローマ教皇ダマスス1世が建てたバシリカ・アポストロルム)。この場所には、聖ペテロと聖パウロの仮の墓があるところである。教会は現在、サン・セバスティアーノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂
聖遺物
芸術と文学『聖セバスティアヌ』、アンドレア・マンテーニャ画。