『聖アントニウスの苦悩』イタリア語: Tormento di sant'Antonio
英語: The Torment of Saint Anthony
作者ミケランジェロ・ブオナローティ
製作年1487年ごろ
種類卵テンペラ、板[1]
寸法47 cm × 34.9 cm (19 in × 13.7 in)
所蔵キンベル美術館、テキサス州フォートワース
『聖アントニウスの苦悩』(せいアントニウスのくのう、伊: Tormento di sant'Antonio、英: The Torment of Saint Anthony)あるいは『聖アントニウスの誘惑』(せいアントニウスのゆうわく, 英: The Temptation of Saint Anthony)は、盛期ルネサンス期の巨匠ミケランジェロ・ブオナローティが1487年ごろに制作した絵画である。テンペラ。主題は聖アントニウスの誘惑
(英語版)から取られており、ミケランジェロの作品として19世紀に大きな注目を集めた。ミケランジェロの伝記を残したアスカニオ・コンディヴィ(英語版)とジョルジョ・ヴァザーリによると、ミケランジェロの最初のタブロー画は12歳から13歳のころに制作したドイツの版画家マルティン・ショーンガウアーの『悪魔に苦しめられる聖アントニウス』(St. Antonius von Damonen gepeinigt)の複製であり、本作品が彼らの証言するところの作品であるならば、ミケランジェロの4点しか現存していないタブロー画の1つであるばかりでなく、少年時代のミケランジェロが制作した最初の絵画作品ということになる。現在はテキサス州フォートワースのキンベル美術館に所蔵されている[1][2][3][4]。3世紀から4世紀の聖人である聖アントニウスは修道院制度の創始者とされる。アレクサンドリアのアタナシオスの『聖アントニウスの生涯』やヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』によると、エジプトに生まれた聖アントニウスは、両親が死去すると財産を貧しい人々に分け与えたのち、砂漠に隠遁し、隠者として孤独な生活を続けたが、悪魔の誘惑に苦しめられた。 ミケランジェロはショーンガウアーの版画に従って、空中に運ばれたうえで悪魔や怪物たちから攻撃される聖アントニウスを描いている。ショーンガウアーが描いた9体の悪魔たちは聖アントニウスを取り囲んで、聖人の衣服や手足、髪をつかみ、棍棒を振り上げて攻撃している。聖アントニウスはこの試練に対して静かに耐えている。悪魔はいずれも幻想的かつ独創的であり、様々な動物を混成した身体で表現され、ショーンガウアーの鱗や毛皮の写実的な描写は動物の観察に基づいていることを示している[5][6]。 このショーンガウアーの構図に対して、ミケランジェロは独自の創意工夫をふんだんに盛り込んでいる。最も明確な差異は背景である。ショーンガウアーでは画面右下隅に示唆的に描かれた岩山以外はほとんど空白となっているのに対し、画面左下隅に険しい断崖を新たに配置し、岩山があった場所に緑豊かな山を描いた。そしてその間にフィレンツェ周辺を流れる有名なアルノ川の渓谷を思わせる広大な風景を描いた[2][3]。これにより聖アントニウスの苦悩がさらに劇的になっている[7]。またミケランジェロはショーンガウアーの自然主義的描写を高めている。ヴァザーリやコンディヴィが伝えるところによれば、フランチェスコ・グラナッチ
作品
ミケランジェロは人物と衣服の襞をシンプルで幅広の黒い絵筆で下絵を描いているが、風景ではおそらくシルバーポイントを使用し、はるかに詳細な下絵を描いている。左下隅の岩場の下絵で確認された細かく湾曲したハッチングは、ミケランジェロが芸術的訓練の一環として制作したジョット・ディ・ボンドーネのフレスコ画『聖ヨハネの昇天』(Ascensione di San Giovanni Evangelista)の初期の模写の様式に似ている[3]。
さらに塗装後に魚のような怪物の背中に沿って絵具を削り、絵具層の下のジェッソ(英語版)を露出させ、彫刻的な外観を引き立てている。また彫り込みを入れて悪魔の輪郭を鋭くした。絵画の最終段階では、明るい背景色を使用して多数のエッジに調整を加えた。これらの修正は輪郭を洗練することに対する画家の執着を示唆しているが、これらの技法の組み合わせは、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵のミケランジェロの2点の未完成作品『聖母子と聖ヨハネと天使たち』(Madonna con bambino e San Giovanni e gli angeli)と『キリストの埋葬』(Deposizione di Cristo nel sepolcro)でも確認されており、本作品がミケランジェロのタブロー画である強い証拠を提示している[3]。
保存状態はわずかな絵画層の剥落と虫食いの穴がある以外は非常に優れている[3]。
メトロポリタン美術館で行われた修復と科学的調査は本作品の品質を明らかにした。絵画表面のワニスと上塗りの層は変色しており、ミケランジェロの独特のパレットを覆い隠し、絵画の深みや幻想性を損なっていたが、保存修復師マイケル・ギャラガー(Michael Gallagher)によって除去された[1][3]。赤外線リフレクトグラフィーを用いた科学的調査では2箇所のペンティメントが発見されているが、これはミケランジェロが着彩の最中においても、当初の下絵から逸脱して変化を加え続けたことを意味しており[3]、本作品が別の絵画の後に制作された複製ではなく、オリジナルの絵画であることを示している[1][3]。 絵画の来歴の大部分は不明である。すでにルネサンス期の伝記作家たちは絵画の所在について証言を残していない[4]。確実に分かっていることは、絵画は19世紀にトスカーナ州ピサのスコルツィ画廊(Galleria Scorzi)にあり、1837年にフランスの彫刻家アンリ・ド・トリケティ男爵が購入したことである。1859年に本作品を見たイギリスの画家・美術史家チャールズ・ロック・イーストレイク卿など一部の愛好家たちはミケランジェロの真筆画として受け入れており、1874年にはパリでミケランジェロの作品として展示されている。
来歴