聊斎志異
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『聊齋志異』(りょうさいしい、聊斎志異)は、中国代前期の短編小説集。作者は蒲松齢1640年崇禎13年) - 1715年康熙54年))。

藤田(1954)によれば「中國古来の筆記小説の系統を引く數多い文語體の小説の中に在って、短編小説として最も傑出しているということは、既に定評となって」おり、今井(2010)によれば、怪異文学の最高峰と言われている。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。聊齋志異
概要

聊齋は蒲松齢の書斎の名による号であり、『聊齋志異』とは「聊齋が異を志す[注 1]」の意味。内容は神仙幽霊妖狐等にまつわる怪異譚で、当時世間に口伝されていたものを収集して文言小説[注 2]の形にまとめたものであるが、作者の没後約半世紀を経て刻本として上梓された。版本によって異同があるが、およそ500篇の作品を収録している。

阿部泰記[注 3]によれば、『聊斎誌異』は肯て常識を無視し、浮薄な世情に堪え得る強靱な精神を礼讃する話ばかりを好んで載せている。また阿部は劇作家・白話小説家李漁(りぎょ)の、世の浅見や軽薄を嘲笑し、常識に縛られぬ、患難な世情に堪え得る人間を滑稽な筆致で称讃する作品からの影響を指摘している[1]

聊斎志異がいつ頃書かれたのかについて正確な所は分からないが、常石茂によれば第2巻の『地震』が1668年の出来事で、同じく第2巻の『蓮香』は1670年に孫宦iそんけい、(中国語版))の幕客[注 4]となるために南游した際に得たものであり、また自序が蒲松齢40歳(1679年)の作であることから、まずは30歳代10年間の仕事だったとみられる[2]。蒲松齢は一応の区切りとして1679年に自序を書いたころ、同好者として才能を高く評価され、また親しく交流していた同郷の名士王士(おうししん、1634-1711年)に序文の執筆を依頼したとされている[3]。さらに以後も継続して書いており、第8巻の『夏雪』など蒲松齢68歳の時の話もある[2]。結局、蒲松齢存命中は版本として刊行されることなく、多くの同好の士たちによる写本によって広まった。
抄本について

1766年の刻本刊行までに、いくつかの抄本(筆写本)が残存するが、完本としては『鋳雪斎抄本聊斎志異』がある。済南の朱氏[注 5]による1723年の抄本(朱家抄本)を張希傑[注 6]が筆写したもので、1751年の日付がある。字句の異同があるが、篇次等が手稿本に最も近い最早の抄本とされている。1975年に上海人民出版社から影印本が、1979年に上海古籍出版社(中国語版)から活字本が出版された。474篇収録されている。なお、朱家抄本は残存していない。

1948年、東北(満洲)の西豊解放[注 7]の時、一貧農の家から聊斎志異の作者手稿本が発見された。ただしその所収は全編でなく237篇(重複が1篇あるので実質236篇)だった。またこの手稿本にあって1766年の刻本に含まれないものや手稿本以外の写本にみられるものなどがある[4]

1962年、『二十四巻抄本』が発見された。これは1750-65年筆写の抄本をさらに1821-74年の間に筆写したものと見られており、1980年に活字本が刊行された[5]。474篇が収録されている。

1963年、北京で『異史・聊斎焚余存稿』と題された6巻12冊で485篇収録された抄本が発見された。用字からみて手稿本に近く欠落もないため、最も完全で比較的早い時期の抄本とされ、1989年中国書店から影印版が出版された。[6]
版本について

事実上最初の刻本とされるのは[注 8]、蒲松齢没後51年の1766年(乾隆31年)に趙起杲(ちょうきこう、1718?-1766)、飽廷博(ほうていはく、1728-1814年)らによって刊行された『青柯亭刻本』である。趙起杲は鄭方坤(ていほうこん、中国語版)[7]が蒲松齢の出身地に近い山東?州知府だったという経歴から抄本を持っているのではと考え鄭方坤の息子を訪ねたところ写本全巻があった。息子が保有していた写本16巻から正副2抄本を作り、他の抄本と校合し鄭写本が原稿本であることを確認した[注 9]。その後筆写のための借覧依頼に応じきれなくなり、また友人の飽廷博からも勧められ1763年に刊行を決意するが、1766年全12巻を刊行したところで趙起杲は急死した。残りの4巻の刊行を趙起杲の弟から依頼された飽廷博が、趙起杲没後7か月を経て全16巻の刊刻を完成させた[8]


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