耶律 楚材(やりつ そざい、明昌元年6月20日(1190年7月24日) - ドレゲネ称制3年5月14日(1244年6月20日)[1])は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツ・サハリ、またはウト・サカル(「髭の長い人」の意)。 一般に「楚材」という諱で知られるが、二人の兄の諱が「弁才」「善才」であること、耶律楚材と同時代の文人である元好問が一貫して「楚才」と表記していることなどから、本来の諱は「楚才」ではないかとする説がある[2]。特に、息子の耶律鋳が元好問に依頼した文書でも「楚才」と記される(=耶律繧フ承認を得ている)こと、蘇天爵
諱
そもそも「楚材」という諱は『春秋左氏伝』にある熟語の「楚材晋用」(楚の人材を晋で用いる意味)に基づいて耶律履が命名したものであると「中書令耶律公神道碑」に明記されるが[4]、この熟語は「祖国を離れて異国で活躍する者」を意味し、悪く解釈すれば「祖国の裏切者」をも連想させかねない名前である[5]。モンゴル史研究者の杉山正明は、耶律楚材はどこかの段階で「楚才」という名前に不都合を感じて「楚材」という表記を用いるようになり、「晋卿」という字とセットで「生まれた時から楚(=金朝)を離れて晋(=モンゴル帝国)に仕えることが運命づけられていた」という来歴を自称するようになったのだろう、と推測している[6]。 耶律楚材は遼(契丹)の太祖耶律阿保機の長男である東丹国の懐王(義宗・譲国皇帝)耶律突欲の次男の耶律婁国の七世の孫で、遼の宗族出身である[7]。出自は契丹人であるが、代々中国の文化に親しんで漢化した家系である。遼の滅亡後は金に官僚として仕え、祖父は耶律聿魯
略歴
生涯
成人すると宰相の子であるために科挙を免ぜられ、代替の試験を首席で通過して尚書省の下級官僚に任官した[10]。モンゴル帝国が金に侵攻したときは首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落したときにモンゴル軍の占領下に入った[11]。楚材は家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、天文と卜占に通じていたためチンギス・カンの目に止まり、召し出されてチンギス・カンの側近くに仕えることになった[12]。1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行してもっぱらカン側近の占星術師として働き、後にそのときの体験と詩作を『西遊録』に残した[13]。
チンギスの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、チンギスの遺志を尊重してオゴデイを立てることを説き、オゴデイの即位に大きく貢献したとされる[14]。ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、この逸話は疑わしいという説もある[15]。
オゴデイが即位すると、新ハーンにも漢語担当の書記官(ビチクチ)として仕え、漢文史料上で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、旧金朝領華北(=ヒタイ地方)の統治に携わった。楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
1234年にモンゴルが金を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土をハーンの直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺された。また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀を行わせ、実務官僚層の供給源とした。オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。
しかしオゴデイの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立した。結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。
1241年にオゴデイが没した後はほとんど発言力をもたず、その3年後失意のうちに没した。楚材は清貧の美徳を守ったので、その遺産は琴と書物が残るばかりであったという。詩作をよくし、詩集に『湛然居士集』がある。
梁氏が産んだ長男の耶律鉉が30前後で早世したために、鄭氏(蘇氏の説あり)が産んだ末子の耶律鋳が跡を継いだ。後に耶律鋳は嫡子の耶律希亮と共にクビライに仕えて中書左丞相に累進したため楚材は再評価され、太師・上柱国を贈られ、広寧王に追封されて文正と諡された。