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やノートページでの議論にご協力ください。耕耘機(こううんき)とは、田や畑の耕耘を目的とした農業機械の1つである。トレーラを連結して運搬用に使用したため耕運機とも表記され[1]、日本新聞協会用語懇談会が定めた[要出典]代用表記となっている。耕うん機という表記も一般的である[2][3]。日本では当初、米国メリー・ティラー(Merry Tiller、"tiller"は英語で「耕耘機」を意味する)社と技術提携した「メリーテーラー」が広く普及したため、テーラーとも呼称される[1][2][4]。また、圃場で様々な作業を行うために、各種作業機の連結を前提としたものは管理機(かんりき)と呼ばれる。 一般的には、エンジンを載せたフレームに耕耘のためのロータリーを連結し、人が後部からついて歩く形態の機械である。同じく内燃機関(エンジン)を動力とし、比較的大型で汎用的な目的で使われるトラクターと違い、耕耘機は専ら耕耘するための専用機であり、より車体が小さく、車重も軽くできている。 日本において普及が進んだのは第二次世界大戦後のことで、普及に伴い牛や馬に犂を引かせて田畑を耕す古来の方法は廃れてしまった。エンジンやロータリーの構造の改良によって、当初よりは相当小型で高性能を有するようになっている。 しかし、1960年代以降、作業能率の優れたトラクターが本格的に導入されるようになり、耕耘作業の中心はトラクターへと移行し、耕運機は小区画の耕地や家庭菜園、あるいは中山間地の耕地で良く利用される。 なお、その構造上の特徴から、歩行型トラクターという名称で呼ばれることもあるが、本来のトラクターとは全く別の種類の農業機械に位置付けされる。 耕耘機を発明したのはオーストラリアのアーサー・クリフォード・ハワード(Arthur Clifford Howard)といわれている。ハワードはニューサウスウェールズ州の父親の農場で蒸気トラクターを動力とした動力耕耘機の研究を行う中で、L字型の金具の回転により通常の犂と同様な土壌の耕起が可能であることを発見した[5][6]。 1920年にハワードは内燃機関を内蔵した耕耘機の特許を取得し、1922年、シドニー郊外のノースミード(Northmead)にオーストラリア自動耕耘機製造会社(Austral Auto Cultivators Pty Ltd)を立ち上げる。この会社は後の1927年にハワード自動耕耘機会社(Howard Auto Cultivators)と名前を変えるが、世界的な需要に対しオーストラリアが地理的に不利であったことから、ハワードは1938年、イギリス・エセックス州イーストホーンドン(East Horndon)に新会社・ロータリーホー社(Rotary Hoes Ltd.)を設立した。この会社は世界中に支店を設立し、後にハワードロータベーター社(Howard Rotavator Co. Ltd.)としてグループ統括を行うこととなった[5]。 なお、ハワードグループは1985年、デンマークのスリッジ・アグログループ(Thrige Agro Group)に買収され、2000年には同じデンマークのコンスキルドグループ(Kongskilde Industries)の一員となっている。 耕耘機が日本で登場し普及していった経緯に関しては、次のように捉えられている。 1920年頃から導入され始めた耕耘機は、アメリカのビーマン、ユーチリータ、キンケード、スイスのシマー等の機種が当初多くを占め、現ヤンマーグループのセイレイ工業による国産初の耕耘機(1931年)もシマーをもとに設計されたといわれる。しかし、耕耘機の普及が本格化するのは戦後、アメリカのメリー・ティラー(Merry Tiller)が導入されてからである[1]。 1950年頃導入されたメリー・ティラーは、畜力用和犂をトラクター用に改良した双用和犂をアタッチメント(付属作業機)として耕耘作業用として、また簡易トレーラーをセットし運搬作業用としても爆発的な普及を見た[1]。
概要
耕耘機の歴史
耕耘機の発明
耕耘機の日本における普及経緯日本国内における耕耘機台数の推移