この項目では、日本におけるラーメン(麺料理)について説明しています。
中国における拉麺(麺および麺料理)については「拉麺」をご覧ください。
その他については「ラーメン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
醤油ラーメンの一例。丼には雷文[1]の模様が見える。下記「関連項目」の食器参照。写真は埼玉県春日部市の店舗。
ラーメン(拉麺・老麺)は、中華麺とスープを主とし、様々な具としてチャーシュー・メンマ・味付け玉子・刻み葱・海苔・鳴門巻きなど様々な具材を加えた麺料理である。
漢字表記は拉麺または老麺[2]。太平洋戦争前は支那そば、南京そばなどと呼称される料理であったが、戦後、中国を指す際に支那の呼称を避ける旨の申し送り[3]が発出されたことを契機としてそれらの呼称は減り、中華そば、ラーメンの呼称が一般化した(呼称の変遷)。
日本では、幕末から明治時代にかけて開国に連れて港に出現した中華街(南京街)で中華料理店が開店し、大正時代頃から各地に広まっていった[4][5]。20世紀後半からインスタントラーメンが世界各国に広がり、21世紀からは日本の大手ラーメンチェーン店が世界各国に店舗を展開している[6]。ラーメン専門店や中華料理店で料理が提供され、「〇〇(地域名や味名)ラーメン」とも称され、札幌や博多など様々な地域、それぞれの店舗ごとに独特の進化、アレンジが見られる。分類としては、オムライスやナポリタンといった洋食と同様に、日本でアレンジが加えられた中華料理である日本式中華料理の一種であり、和食や洋食とは別のカテゴリーである。
概要ラーメン屋台(水道橋駅前)
新横浜ラーメン博物館「日本のラーメンの歴史」によると、ラーメンは江戸時代末に開港した横浜、神戸、長崎、函館に多くの外国人が移り住んだことをきっかけとして日本に流入し、中国の麺料理がルーツであるとしている[5]。明治時代になると、中国の麺料理含め中国料理が広がっていき、中国からの留学生とともに港町の外にも店が増えた[5]。
1910年(明治43年)、東京府東京市浅草区に初めて日本人経営者が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった[7]。当時の主力メニューは、「南京そば」、「支那そば」などと呼ばれたラーメンだった。新横浜ラーメン博物館によると、「来々軒」を中国と日本の食文化が融合してできた。日本初のラーメン店としており[5]、ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している[8]。
この店の成功を受けて、太平洋戦争前の日本に続々と庶民的な中華料理店が開店し、ラーメンは餃子や焼売などとともに、定番メニューとして広まっていった[9]。太平洋戦争後は中国大陸からの引揚者によるラーメン屋台も多く出現した[5]。約100年の歴史の中で、様々なアレンジが加えられていき、中国やベトナムなどのアジアの麺料理とは異なる、日本独特の麺料理に変化している。素材の味だけで勝負する無化調ラーメンや、インパクト重視の家系ラーメンなど、ニーズに応じて様々な進化を遂げており、国民的料理として人気を博している。 元は中国語で[4][2]、別称はいくつもあり、ラーメンの語源も複数ある。 国内では、カタカナで「ラーメン」と表記されることが多い。 らーめん・らあめん・らぁめん・らー麺など平仮名で表記されることもある。らうめんという表記も稀にあるものの、語源からすると誤りで、独自のネーミング表記の類であるだろう。 「中華そば」や「支那そば」も呼び方が違うだけであり、同一である。日本では時代とともに南京そば、支那そば、中華そば、と呼称が変遷した。ラーメンの呼称を広めたのは、1958年(昭和33年)に日清食品が発売した世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」であるともいわれている[10]。ブラジルでは日清食品はMiojo(明星)の商標を獲得しているが、Miojoはインスタントラーメンの代名詞的な呼び名ともなっている[11]。 台湾(中華民国)や中国(中華人民共和国)では、日本のラーメンは日式拉麺(繁: 日式拉?/簡: 日式拉面)や日本拉麺(繁: 日本拉?/簡: 日本拉面)と呼ばれる。
名称
日本語白湯スープのラーメン(名古屋市)
中国語