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やノートページでの議論にご協力ください。老中(ろうじゅう)は、江戸幕府に常設された最高職。2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執ったが、筆頭者(老中首座)は事実上の執政として幕政を主導した。
なお、諸藩で通常藩政を統括する者を家老というが、藩によって名称や職制はさまざまであり、老中と呼ぶところもあった。 三河時代の徳川家でその家政を司った年寄(としより)に由来する。年寄を「老」一字で表し、これに「集団の一同、全体」を意味する「中」(家中、氏子中、連中、惣中、村中などに同じ)を付け、本来は複数の宿老からなる総体を指した。『徳川実紀』には宿老とも書かれている。当初は御年寄衆と呼ばれており、旗本の間ではこの呼称で定着した。老中奉書(幕府の命令書)に署名・花押を加えて発出することから加判の列ともいった。 寛永11年(1634年)から慶安2年(1649年)までの間、3代将軍徳川家光の側近を登用して六人衆という職が置かれ、日常の雑務を取り扱った。そのうち4人が老中に昇進したことでいったん老中の職掌に吸収されたが、寛文2年(1662年)に若年寄が設置されて旗本・御家人の支配、江戸城中の管理といった徳川家の家政を担当し、老中は大名支配等の国政を担当するという幕政の基本的な分担体制が整った。 老中は、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などを指揮監督し、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄、知行割りについてなどを統轄した。定員は4人から5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、江戸城本丸御殿にあった御用部屋と呼ばれる部屋を詰め所・執務室とし、重大な事柄については合議した。また、外部に漏れてはいけない重要なことを話し合う時には盗聴(当時は盗聴器はないので床下や天井裏、外からの盗み聞き)をされないよう、さらに文書として証拠も残らない最善策として御用部屋に置かれていた囲炉裏の灰の上に筆談をした。実際には担当ではない者も月番の者と同じように、重要な事柄を合議・処理をしたりしていた。また、諸大名の統治も職務としており将軍の命令を老中奉書で大名に下達した。担当大名と幕府の間を事前に調整・指導して取り持つ取次の老中と呼ばれる立場のものもいた。 将軍を首相に喩え、老中を閣僚と看做すようなむきがあるが、上記の通り実際にはかなり異なる。老中は政務全般を担当し、月番交代ないし協議しており、現在の閣僚のような政務の分掌は行っていない。江戸幕府の制度では政務の分掌は各奉行レベルによってなされた。しかし、後に1人を老中首座とも呼ばれる勝手掛老中として財政を専任させ、老中の筆頭として政治を行った。この他、時によって西の丸老中を置いた。西の丸老中は幕政には関与せず、もっぱら西の丸に居住する大御所や将軍嗣子の家政を総括していた。慶応3年(1867年)に幕末の幕政改革で月番制を廃止し、国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の5人の総裁がそれぞれ専任する体制となり、現在の閣僚のような政務の分掌が行われた。 執務時間は約4時間程度だったと言う。一般的には老中は午前10時ごろ江戸城に登城、午後2時ごろに退出した。また、老中に就任すると、西之丸下(現在の皇居外苑)に屋敷替えになることが多かった。江戸城に詰めることが多くなるため、関東周辺を領する大名家が老中などの幕府重要職に就任する例が多めであり、遠国の大名が老中就任に伴い下総国佐倉藩などの江戸により近い場所へ転封される例も多かった。逆に言えば、遠国を領している場合、幕閣特に老中として幕政参与することは難しくなる。幕閣での出世を強く望んでいた肥前唐津藩主の水野忠邦はそのために、実収入の多い唐津から、実収入は激減するが江戸により近い遠江国浜松藩への転封を画策してこれを叶え、以降幕閣で出世し老中に就任している。 老中になるためには、通常5万石以上の譜代大名という規定があった。しかし例外もあり、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれており、老中より一段格が落ちるものの職責はほとんど老中のそれと比べても遜色がなかった(ただし、老中奉書への連署は行わなかった)。老中格から老中になる例もあった。また、幕府の役職に就くのは不可能である外様大名家でも、願譜代(外様から譜代扱いにしてもらうこと)となり老中などの幕閣に連なった例もある。 老中就任者は前職として、側用人や京都所司代、大坂城代など将軍直属の役職から転じる例が多かった。大坂城代に任じられた大名は、それまで官位が従五位であった者は従四位下に昇任するのが通例である。
沿革
職務・任用