老上単于
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老上 単于(ろうじょう ぜんう、?音:L?oshang Chanyu、生年不詳 - 紀元前161年)は、前漢前期の匈奴単于(在位:紀元前174年 - 紀元前161年)。氏は攣?氏、名は稽粥(けいいく)といい、老上単于というのは称号である。目次

1 生涯

2 妻子

2.1 閼氏(皇后)

2.2 子


3 脚注

4 参考資料

生涯

冒頓単于の子として生まれ、父の死により単于に即位した。

孝文帝(在位:前180年 - 前157年)は皇族の娘を公主にしたてて[1]老上単于に嫁がせ、匈奴の閼氏(えんし:皇后)とさせた。このとき孝文帝は出身の中行説を公主のおもり役として一緒に匈奴へ送ってやった。しかし、中行説は匈奴に連れて来られたことに不満を抱き、以後漢に背いて匈奴の単于に仕えることとなる。

この頃の匈奴では冒頓単于以来、漢から送られてくる絹綿や食料などの物資を愛好するようになり、老上単于もまた愛好していた。それまでの匈奴と言えば、服装は毛皮で、食物は肉か乳製品であったので、中行説は「漢の文化に染まるのはよくありません」と諫める一方、記録方法や課税方法などを匈奴に伝授して匈奴の国家発展に貢献した。

紀元前166年、老上単于率いる匈奴軍14万騎は朝那・蕭関に侵入し、北地都尉の孫?を殺し、人民と畜産を甚だ多く略奪し、遂に彭陽に至る。老上単于は奇兵(奇襲の兵)に命じて回中宮を焼き払わせ、候騎(斥候)には雍州の甘泉にまで現れさせた。ここにおいて文帝は中尉の周舎、郎中令の張武に命じて将軍とし、戦車千乗、騎10万を発して、長安の旁らに置いて匈奴の侵攻に備えさせた。文帝は昌侯の盧卿を拝して上郡将軍とし、寧侯の魏?を北地将軍、隆慮侯の周竈を隴西将軍、東陽侯の張相如を大将軍、成侯の董赤を前将軍として、戦車と騎兵の大軍を繰り出し、匈奴討伐に向かわせた。老上単于は塞(長城)内に1ヶ月あまり留まった末、ようやく立ち去り、漢軍は塞を出てこれを追撃したがすぐに帰還した。匈奴は日に日に傲慢になり、毎年のように侵入するようになって多くの人民と畜産を殺して奪った。このうち雲中郡遼東郡が最も甚大な被害を受けており、代郡にいたっては1万人あまりも殺された。漢はこれを患い、匈奴に使者をやって書簡を送ると、老上単于の方も当戸[2]を使者として返礼陳謝させて来た。ここにおいて両国はようやく講和を結んで友好関係を取り戻した。

4年後(紀元前161年)、老上稽粥単于が死に、子の軍臣が立って単于となった。
妻子
閼氏(皇后)

漢の
公主



軍臣

伊稚斜

脚注^ 公主とは本来、皇帝の実の娘であるが、この時期の外交において本当の公主を嫁に出すことはめったになく、たいてい親類の娘を公主にしたてて匈奴に送っていた。
^ 匈奴の官名。

参考資料

史記』(匈奴列伝)










匈奴の第3代単于(前174年 - 前161年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / (右谷蠡王単于)前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / ?犁湖単于前102 / 且?侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍?単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍??単于前60-前58
分裂時代

東匈奴

呼韓邪単于前58-前31
西匈奴

?支単于前56-前36
対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代

復株累若?単于前31-前20 / 捜諧若?単于前20-前12 / 車牙若?単于前12-前8 / 烏珠留若?単于前8-13 / 烏累若?単于13-18 / 呼都而尸道皋若?単于18-46 / 烏達?侯単于46
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21
北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / (於除?単于)91-93


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