?義
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? 義(てき ぎ、? - 7年)は、中国前漢時代末期の政治家・武将。字は文仲。豫州汝南郡上蔡県の人。父は丞相となった?方進。兄は?宣。

漢の実権を握り、「仮皇帝」とまで称するようになった王莽に対し、危機を感じ、反乱を起こしたが、敗れて死んだ[1]
事跡

姓名?義
時代
前漢時代
生没年生年不詳 - 7年居摂2年)
字・別号文仲(字)
本貫・出身地等豫州汝南郡上蔡県
職官郎〔前漢〕→諸曹〔前漢〕

→南陽都尉〔前漢〕→行南陽太守〔前漢〕
→弘農太守〔前漢〕→河内太守〔前漢〕
→青州牧〔前漢〕→東郡太守〔前漢〕
大司馬・柱天大将軍〔劉信〕
爵位・号等-
陣営・所属等哀帝平帝孺子嬰劉信
家族・一族父:?方進 兄:?宣

初期の事跡

丞相であった?方進の末子として生まれ、任子により若くして郎として任用された。諸曹に昇進した後、20歳にして南陽郡の都尉に就任した。赴任後、?義は当時権勢を極めていた王莽ら王氏一族と姻戚であり、州や郡でも名声を得ていた南陽郡宛県県令の劉立を「公金10金を盗み、無実のものを殺した」として捕縛した。しかし丞相であった父の?方進は、この事を知ると使者の役人を通して劉立の釈放を命じ、その後「小僧(?義)は役人のなんたるかを知らず、牢獄に入れさえすれば、死なすことができると思っていたのだ」と語ったという。

後に、?義は何らかの罪に連座して罷免させられたが、再び登用されて弘農太守となった。次いで、河内太守、青州を歴任し、任地では父と同様の風貌と才能があるとして名声があり、さらに東郡太守に昇進した。
反乱決起までの背景

東郡太守への昇進の数年後[2]の元始5年(5年)12月、漢の14代皇帝である平帝が死去する。後継ぎはいなかった[3]ため、4代前の皇帝であった宣帝の玄孫であり、広戚侯劉顕の子で当時わずか2歳であった劉嬰が、次の皇帝に選ばれる事となった。しかし同月のうちに「井戸をさらったところ、『告安漢公莽為皇帝(安漢公王莽に告ぐ。皇帝になるように)』と記された石が出てきた」との報せが届き、他の群臣らも王莽に阿った結果、王莽は皇帝の政務や祭事を代行する事となり、祭事の際は「仮皇帝」、民衆や群臣に対しては「摂皇帝」と称し、劉嬰は「孺子」と号され皇太子に据え置かれる事となった。

?義は王莽の所業に危惧を抱き、挙兵して王莽を討伐しようと考えるようになった[4]。この代替わり直後の居摂元年(6年)4月には、安衆侯劉崇が自領において反乱を起こしたが、敗北して鎮圧されていた[3]

同年5月、王莽は貨幣の新鋳を実施した。これと同時に王莽は列侯以下の者に黄金を所持することを禁じさせ、朝廷に黄金を上納すれば新貨幣が受け取れるものとしたが、実際には上納しても新貨幣は与えられなかった[3]。20世紀の日本の中国史学者の東晋次は、「この仕打ちは、おそらく列侯たちの反感を買ったのであろう。?義たちの反乱計画には、このような列侯たちの不満をも利用しようとする意図があったのである」と考察している[5]
反王莽の挙兵

?義は、姉の子である上蔡県に住む陳豊に語った「新都侯(王莽)は、天子を代行し、天下を号令するために、宗室から幼い者を選んで孺子と号して、みずからを周公旦成王を助けた故事になぞらえている。王莽は、観望しているが、必ず漢の家に取って代わろうとしており、その兆しはすでに見えている。いま、宗室は衰弱し、外に強い蛮国は無く、天下の人々が首をかしげて王莽に服從しており、国難に立ちあげられるような人物はいない。私は、幸いにも宰相の子であることを得て、この身は大きな郡の太守となっている。父子して漢から厚い恩を受けている。義としてまさに国のために賊を討ち、漢の社稷を安んずるべきである。そして、兵を挙げて、西の天子の代行にあたるべきでないもの(王莽のこと)を誅殺し、宗室の子孫を選んで、それを助けて天子として立てようと思う。たとえ、時流や運命が味方せずに不成功に終わっても、国の死に名に殉じたとなれば、それでも、先帝に恥じることはないであろう。いま、挙兵を行おうと思うが、お前は私に従うか?」。陳豊は、年が18歳[6]で勇壮であった。陳豊は、?義の提案を許諾した。

ついに、?義は、東郡都尉の劉宇・厳郷侯劉信[7]、劉信の弟である武平侯劉?とはかりごとを行った。さらに、東郡に住んでいた王孫慶が元々から勇略があり、兵法にも明らかであったため、王孫慶に重罪があり、逮捕するといつわって、京師から呼び出した。

9月になり、毎年9月に行われる軍事演習の日に、?義は決起して、観県県令を斬り、車騎材官の士を率いて、東郡で勇敢な人物を募集し、将帥を定めた。また、東平国の王は、劉信の子である劉匡であったため、東平国も挙兵に加わった。

?義は、劉信を天子として擁立し、?義みずからは、大司馬・柱天大将軍と号し、東平王傅である蘇隆を丞相に任じ、東平国の中尉の皋丹を御史大夫に任じ、漢の旧来の三公制度に似た新たな朝廷を作った。また「王莽は先の帝の平帝を毒殺し、代行と偽って天子の尊号を僭称し、漢を滅ぼそうとしている。今は、すでに天子が即位して、天罰を行い、王莽を誅殺しようとなさっている」という内容の檄文を、各地の郡や国に伝えた[8]。各地の郡や国は震撼するとともに、王莽に平帝殺害の疑惑を抱き、?義の軍が山陽郡に着いた時には、その衆は十数万人に達していた[8]

なお、かつて?義が捕らえた宛県県令である劉立は、?義が挙兵したと聞き、上書して軍やその役人を準備し、国のために賊(?義)を討伐することを願い、心ではかつての恨みに対する仕返しをしようとした。劉立は、王莽によって、陳留太守に任じられ、明徳侯に封じられた。
王莽の対応

王莽は?義の反乱を聞いて恐れを抱き、腹心や各々の官吏に兵を率いさせた。王莽は食事も摂れないというほどに恐れを抱き、日々昼夜、孺子嬰を抱き、郊外にある廟で祈りを行い、群臣と会うと「いにしえの大聖でも、このようなことを恐れたのであるから、ましてや、この王莽のような、とるに足らぬ人間ならなおさらである!」と話した。群臣はみな「このような異変に遭わなければ、聖徳をあらわすことはできません」と返した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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