羽黒山政司
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羽黒山 政司

羽黒山政司(1943年頃)
基礎情報
四股名羽黒山 政司
本名小林 正治
愛称立浪三羽烏
ジャングイ
生年月日1914年11月18日
没年月日 (1969-10-14) 1969年10月14日(54歳没)
出身新潟県西蒲原郡松長村
(現:新潟県新潟市西蒲区
身長179cm
体重130kg
BMI40.57
所属部屋立浪部屋
得意技左四つ、吊り、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第36代横綱
生涯戦歴359勝99敗1分117休(46場所)
幕内戦歴321勝94敗1分117休(39場所)
優勝幕内最高優勝7回
十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
データ
初土俵1934年1月場所[1]
入幕1937年5月場所[1]
引退1953年9月場所[1]
備考
2013年7月5日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

羽黒山 政司(はぐろやま まさじ、1914年11月18日 - 1969年10月14日)は、新潟県西蒲原郡松長村大字羽黒(現:新潟県新潟市西蒲区)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第36代横綱。本名は小林 正治(こばやし まさじ)[1]
来歴
入門?スピード出世で横綱へ

1914年11月18日新潟県西蒲原郡松長村(現:新潟県新潟市西蒲区)で農家を営む家に三男として生まれる。地元・新潟県の土地相撲で活躍した父親の血を引いたのか、幼少期から大兵だった。当時、新潟では風習で風呂屋の主人を志すことがあり、平成時代に入ってからも東京都内の銭湯の経営者は新潟出身者で占められている。正治少年も1929年に上京して、伯母が両国で経営していた銭湯「朝日湯」へ奉公に出て三助をやっていた[2][3]

正治少年が三助として奉公に出てからしばらくしたある日、「銭湯の三助が怪童」との噂を聞きつけた、朝日湯の隣にあった錦嶌部屋から熱心にスカウトされたが、三助で食べていくために丁寧に断り続けた。しかし今度は正治少年の噂を聞きつけた立浪から連日のようにスカウトを受けたが、度重なる攻勢に正治少年は次第に心を閉ざし、伯父の経営する世田谷区の風呂屋へ逃げ込んだ。しかし立浪は、逃げ込んだ世田谷の風呂屋にまで足を運んで正治少年をスカウトし続け、「横綱になればもっと親孝行が出来るぞ」「相撲取りはいいぞ。全国を見物して歩けるし、出世すれば田畑を買って親を喜ばすこともできる」との言葉に心が動き、ついに立浪部屋へ入門を決意した[2][3]

最初から出身地に因んだ「羽黒山」の四股名で(大字が羽黒だった)、1934年1月場所で初土俵を踏む。初土俵に関しては、1月場所直前に双葉山定次との稽古で右足を捻挫したため同年6月場所まで待ったという説もある[3]。これ以降、双葉山の胸を借りながら徐々に力を付け、序ノ口から幕下まで4場所で通過し、さらに関取増員の影響もあって僅か3年後の1937年1月場所には十両へ昇進した。その十両も僅か1場所で通過し、初土俵から所要7場所という最速で、1937年5月場所には新入幕を果たした[2][3]。入幕まで連続優勝を果たした力士は初であり、2022年時点でも他に出ていない[3]

入幕後も羽黒山のスピード出世は止まらず、平幕2場所、小結2場所、関脇1場所で1939年5月場所後には大関に昇進する。大関で一場所だけ途中休場(1940年5月場所)があったが、1941年1月場所は前田山張り手戦法に屈した黒星だけの14勝1敗で双葉山と優勝同点[注 1]、5月場所もやはり14勝1敗で2敗の双葉山をおさえて初の幕内最高優勝を果たし[4]、場所後に横綱昇進。大関も4場所での通過となった[3]
ケガ・悲劇に悩まされる

横綱昇進後は皆勤さえすれば必ず優勝争いに絡む安定した強さを示したものの、ちょうど双葉山が円熟期を迎えており(羽黒山の新横綱場所から4連覇)、しばらくはその陰に隠れた存在に甘んじた。横綱6場所目、後楽園球場での開催となった1944年5月場所で10戦全勝、1敗の双葉山をおさえてようやく横綱として初、通算2度目の優勝を果たす。

双葉山が現役でいた間、双葉山と1勝差で優勝を逃すこと2度、優勝同点1度、逆に2度の優勝はともに双葉山を1勝差でおさえてのものだった。2度目の優勝の頃からは「もう双葉山より強いのではないか」という声も聞かれるようになった。

第二次世界大戦の敗戦とともに双葉山が引退すると、名実ともに第一人者として戦後の復興真っ只中の相撲界を支えた。1945年11月場所から4連覇・32連勝を記録したが、その間に立浪の娘だった妻と長男を相次いで亡くす悲劇に見舞われ、その悲しみを乗り越えて全勝優勝を果たした(1946年11月場所)[2][3][1][注 2][5]。それ以外にも、戦時中の食糧難により体重が90kg台前半まで落ちたことがあるなど苦難を経験している[6]

その後も羽黒山にはアクシデントが続く。1948年4月23日の五條巡業で照國と取り組みを行った際に右アキレス腱を断裂、当時の日本の外科の権威によって手術が行われたが、半月程は下駄を履いて歩くのにも難儀した[注 3]。さらに同年7月の北海道巡業で横綱土俵入りを行った際、四股を踏んだ途端に同じ箇所を再び断裂してしまった。すでに羽黒山は30代に入っており、その後も後遺症で休場するなど再起が絶望視された[2]が、周囲が引退に反対していたため続投[6]1949年5月場所で復帰し、11勝4敗で何とか踏みとどまったが、既に羽黒山のかつての勢いは失われたと思われた。しかし、1952年1月場所で最後の優勝を全勝で飾り、この時37歳2ヶ月で最高齢での全勝優勝記録となっている[注 4]。この場所千秋楽の千代の山戦は、千代の山の激しい突きに羽黒山も応戦、右のど輪で攻め立てて左下手廻しを引くや、大きく下手投げを放ち快勝、という内容であった[7]羽黒山の断髪式で双葉山の時津風が鋏を入れる(1954年)

1952年12月16日に師匠・立浪が亡くなると、現役のまま二枚鑑札で立浪部屋を継承した[3]1953年1月場所4日目、二瀬山勝語との取組中に右手親指が二瀬山の口に入り、そのまま強く噛まれて骨折した。このまま休場かと思われたが、この場所は照國萬藏・千代の山が前日から休場(照國はそのまま引退、千代の山は終盤戦に再出場)、東富士欽壹も連敗を喫し不振だったため休むに休めず、折れた指に添え木と包帯を当て痛み止めを打ちながら土俵に上がる(添え木は土俵に上がる際に外した)など、悲愴な土俵を務めた。この場所は新鋭・栃錦清隆と対戦したが、この取り組みが行われた日は再婚した妻の長男が誕生した日でもある[2]1953年9月場所は全休のまま、この場所限りで現役を引退した。


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