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(鳥取県)
羽衣石城模擬天守
城郭構造連郭式山城
天守構造なし(層塔型3重3階模擬)
築城主南条貞宗
築城年貞治2年(1366年)
主な城主南条氏、尼子国久、毛利元経
廃城年慶長5年(1600年)
遺構石垣、井戸
指定文化財県指定史跡[1]
再建造物模擬天守
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分14.32秒 東経133度53分54.45秒 / 北緯35.4373111度 東経133.8984583度 / 35.4373111; 133.8984583
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羽衣石城(うえしじょう)は、伯耆河村郡埴見郷(現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町)にあった中世の日本の城(山城)。鳥取県指定史跡[1]。 城跡は東郷池の南、羽衣石川上流にある羽衣石山(標高372メートル)にあり、山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にある。永禄から天正年間にかけてこの地を治めていた南条氏の本拠地で、伯耆の支配権を巡り尼子氏や毛利氏が激しい攻防を繰り返した[2]。 山頂には1990年(平成2年)に建てられた三層の模擬天守と「羽衣石城主南条公累代碑」がある。それ以前にも、1931年(昭和6年)に大阪在住の南条氏の子孫によって建てられた模擬天守があった。 南条氏は、伝承によると当初、羽衣石城よりも奥にある十万寺集落付辺に築城を予定していたという。築城しようとしたところ予定地のそばにある「日向池」(現在は地名のみ残る)にツバメが落ち、不吉なことだと感じた貞宗が羽衣石山へと変更させたといわれている。現在、その十万寺集落の北に広大な城跡(十万寺所在城)があることが判明しており、2019年(令和元年)度から調査が始まっている。
概要
歴史
貞治5年(1366年)、南条貞宗が築城。
大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城。尼子領となり、南条宗勝は山名氏の元に逃れる(近年の研究ではこの五月崩れの存在自体が否定されている)。
天文15年(1546年)、南条国清(のちの宗勝)、武田国信の要請を受けて尼子方を離れると同時に羽衣石城から退去する。
永禄5年(1562年)、宗勝、毛利氏が尼子氏を滅ぼした際、羽衣石城へ復帰する。
天正3年(1575年)、宗勝、月山富田城の吉川元春らに謁見。その帰途病死する。宗勝の死により、子の南条元続が家督を継ぐ。
天正7年(1579年)、元続、父宗勝の死を毛利方の謀略とみて毛利方に背き、羽柴方につく。
天正9年(1581年)、元春が馬ノ山に布陣し、子の元長に羽衣石城を攻めさせる。鳥取城を落とした秀吉軍が馬ノ山で元春軍と対陣したが、両者共に退いた。
天正10年(1582年)、元春配下の武将・山田重直の手により落城する。
天正12年(1584年)、織田氏と毛利氏の和睦が結ばれ、伯耆国東3郡が南条氏領となる。